第7回  研究報告会 報告要旨


『スイス中世都市−フリブールの場合−』

報告者 森田安一


▽日時:1994年7月2日(土)15時5分〜18時35分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科演習室


 スイス中世の主要諸都市はヨーロッパ中世都市研究の要に位置する研究対象である。スイス都市はアルプス以北の中世都市の政治・経済構造をもちながら、封建領主を排除して強力な都市国家を完成して、18世紀末までその体制を維持することに成功している。しかし、スイス中世都市はスイスという狭い地域にありながら、都市類型の観点から見ると、その多様性が目につく。
 まず、都市成立の類型からみれば、(1) 自然成長型(核=司教宮廷 Basel, 王宮 Zuerich, Solothurun, 修道院 Schaffhausen)および (2) 建設都市型(大型・軍事支配拠点 Fribourg, Bern 小型・公益流通拠点 Luzern, Zug)と分けられよう。都市領主の類型からみれば、(1) 帝国都市/{司教都市}/ (2)領邦都市の分類ができるが、各都市の歴史の展開によって分類は当然変化する。さらに、都市政治構造の類型からみれば、これも個別都市では時代とともに変遷するが、 15世紀末で分類すれば、(1) 都市貴族支配型 Luzern, Fribourg/{中間形態}Bern, Solothurun / (2) ツンフト支配型 Zuerich, Schaffhausen, Basel (3) 例外(都市と農村の共同統治)Zug がある。
 こうした類型のなかで、フリブールはつぇーりんげんけのけんせつとツェーリンゲン家の建設都市で始まり、その後領邦都市として長くキーブルク家、ハプスブルク家、サヴォワ家と行った都市領主の支配下にあった。短い帝国都市の時期を経て、スイス盟約者団に1481年に加入した。しかし、政治構造としては一貫して都市貴族支配がおこなわれ、「ツンフトのない都市」であった。都市当局に支配される職能団体 Gesellschaftとしてのツンフトは存在したが、都市統治に参与できる市政担当者の選出母体としてのツンフト Zunftは存在しなかった。そのため、中産市民層は市政、延いては都市そのものに大きな関心を示さなかった可能性がある。  1445年の徴税台帳からみると、納税者数1897人中市民は 503人( 26.5%)しかいない。非市民の大部分は無産者と資産 100ポンド以下の下層民で非市民の 82.7% を占めるが、中産階層(資産額100〜1,000ポンド)の市民対非市民の人数は 259人対233人で大きな差はないのである。中産市民が支えるはずの拡大市参事会( 200名構成)の充足率は 1416年の場合 79.5% しかない。無給の市政担当を重荷に感じる状況があったと考えられる。
 しかし、16世紀を経過するなかでこうした状況に変化が生まれる。新市民の受け入れが年々厳しくなり、市民の閉鎖化が起きてくる。都市国家化(農村支配による市民の集団領主化)や人口増加が大きな理由と考えられる。この時期になると、他のスイス主要都市も同様な変化にあい、近世スイス都市は、都市法制の相違を越えて、大きな類似性を増していく。こうした見通しのうえに立って、スイス中世都市全体をもう一度見直す必要があろう。