第9回  研究報告会 報告要旨


スイス史研究文献紹介 −Claudius Sieber-Lehmann氏の最近の研究を中心に−

報告者 岡田 公司


▽日時:1994年11月26日(土)15時10分〜18時05分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科演習室


 スイス中世史研究における《心性史》の研究成果は、この20年の間に《アナール学派》などに影響されながら確実に蓄積されてきた。近年では特に、チューリヒ大学の Sablonier, バーゼル大学の故 F. Graus, Guy. P. Marchal (現在はルツェルン)を中心とした研究グループの成果が注目されよう。なかでも中世末期、特に1450年代からブルグント戦争(1474-76)にいたる、神聖ローマ帝国の《辺境》に位置したスイス・上ライン地帯における《プロトナショナリズム》ともいえる「自己理解」意識の歴史的展開に関する C. Sieber-Lehmann 氏の一連の研究は興味深い。
 1453年のコンスタンチノープル陥落によるオスマン・トルコへの危機意識は、ローマ教皇だけでなく神聖ローマ皇帝にも、新たな十字軍遠征を迫らせた。1471年のレーゲンスブルク帝国議会(大キリスト教徒議会)において“heiliges roemisches reich teutscher nation”という用語が史料的に初めて確認されるように、“teutsche nation”が頻繁に使用され、支配層のなかでは意識されてゆく。一方、民衆の間でもトルコ10分の1税の導入や難民の出現などにより、日常生活のなかでのトルコ像の内面化とともに、蔑視・揶揄のモチーフとして《トルコ(人)》が用いられてゆく。
 当然ながら《反トルコ》への協力要請は、スイス盟約者団ないし各邦に何度となくなされた。しかし、盟約者団はより切迫した事態に直面していた。それは、1467年にブルグント侯となり、膨張政策を遂行していたカール豪胆侯 Karl der Kuehne にたいする強い危機意識であった。盟約者団をはじめ上ライン(特にエルザス一帯)の諸都市にとっては、オスマン・トルコよりまずもってこの《西洋のトルコ》への十字軍(=ブルグント戦争)が最大の懸案事項となった。同時にカール豪胆侯は《ブルグントのスルタン》、彼の支配地の一ラント・フォークトであった Peter von Hagenbach には《暴君・異質者(Fremder)》、その傭兵の多くを占めていたロンバルディア人には《ホモセクシャリテート=異端者》という揶揄がなされる。その際、盟約者団の支配層は、“ TEUTSCHE nation”の危機を強調することにより、ブルグントへの十字軍を正当化するのであった。
 ところでこのブルグント戦争では、スイス盟約者団が《白十字》を自らの目印にしはじめたに留まらず、むしろその行動様式の特異さが確認される。その一つは、戦争捕虜の取扱であった。エルザスの諸都市が捕虜を身代金獲得の手段としていた一方で、スイス盟約者団は捕虜を残さず、その場で殺害してしまうのが常であった。さらに戦闘行為の前後に地面に両膝を膝まづき、両腕を水平にのばして《祈る》[Beten “mit zertanen armen”]特異な祈祷形態も挙げられる。1501年にバーゼルが、スイス盟約者団に加入すると同時にこの祈祷形態も導入した。このことにたいして、人文主義者の Jacob Wimpheling が怒りをあらわにし、バーゼルとスイス盟約者団を揶揄したのは有名である。一方で、ブルグント戦争でのスイス盟約者団の勝利を誇示するかのように、中世では伝統的に用いられてきた