第13回  研究報告会 報告要旨

「スイスの言語事情と言語生活」

報告者 牧 幸一


▽日時:1995年10月7日(土)15時10分〜18時30分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科演習室


 日本で言えば、四国、九州ほどの面積しかないスイスに、四つの国語が使用されている。しかも比較的平和裡に言語間の関係が保たれている。これは、不思議のように思えると同時に、何か将来への示唆をわれわれに与えているようにも思われる。

 今回の発表の柱は二つある。一つは、現在のスイスの言語事情と言語生活は具体的にいかなるものであるか、という問題。もう一つは、過去に遡って、これがどのような経緯を経て、今日の言語事情、言語生活に至ったか、という問題である。

 まず、現在の言語事情と言語生活をスイスの各言語圏に則して説明。フランス語圏ではフランスの標準フランス語が言語生活において支配的で、方言や裡語は、山間の僻地を除き、まずほとんどない。イタリア語圏はむしろその逆で、言語生活において方言に依存する度合いが高い。しかもここのアルプス地方の方言は多様で、標準イタリア語からかなり隔たっている。もちろん書き言葉、文章語として標準イタリア語の地位はここでも揺るぎない。ドイツ語圏も、イタリア語圏とほぼ同じような事情が支配している。すなわち書き言葉、公的な言葉として標準ドイツ語、話し言葉、私的な言葉としてスイス・ドイツ語というように、二言語併用が行われている。スイスのレト・ロマン語圏、すなわちグラウビュンデン州の言語事情と言語生活は複雑多岐に亘っている。たしかに言語地図の上では、この州の真ん中を東から西へ帯状にレト・ロマン語が拡がっているように見える。そして北部にはドイツ語、南部にはイタリア語に色分けされている。しかし実際はレト・ロマン語圏はそれぞれつながっておらず、アルプスの山々に分断されている。中心地もなく、また統一レト・ロマン語もなく、およそ5つのレト・ロマン語がそれぞれ孤立して併存している。またこの地域には、ドイツ語系住民も少なからず居住し、ドイツ語化が加速的に進んでいる。従ってレト・ロマン語圏は、実際、レト・ロマン語とドイツ語との中間色で塗られるべきであろう。

 さて、発表の第二の柱は、スイスの言語の歴史を垣間見ることである。すなわち、現在のような言語状況の大まかな輪郭ができたのは、ほぼ13世紀で、それまでのスイスの言語状況の変遷を辿ることにする。過去に遡れば遡るほど、現在とはますます異なった様相を呈する。まず紀元前のケルトの時代。レト・ロマン人の原型をエトルスク人とする説もあるが、スイスはラ・テーヌ文化を生んだケルト語圏。次はローマ帝国の時代。ここではケルト語とラテン語との混合が進み、ケルト・ロマン語とレト・ロマン語が形成される。その次はゲルマン民族移動の時代。ほぼ5世紀頃からスイスの地にもゲルマン人の移住が進む。すなわちスイスの西側にはブルグント人が、そしてスイスの北部、北東部にはアレマン人が末期のローマ帝国内に進出する。スイスの地に旧ロマン人と新しいゲルマン人との共生が始まる。しかし西側のブルグント語は結局先住のケルト・ロマン語にまもなく吸収されるのに対し、北部、北東部のアレマン語は、ますますその勢力範囲を広め、先住のレト・ロマン語を吸収あるいは追いやるに至る。次はアレマン人の積極的な開拓と入植の時代。彼らは、西に南に生活の場を拡げ、ついに西側ではブルグント人やケルト・ロマン人と衝突し、南では、アルプスにまで辿り着く。そして9世紀にはアレマン人はさらにアルプスを越え、ローヌ川の源流から、ヴァリス上部の地を次々にドイツ語地域に変えていく。例えばツェルマットはこうして出来たアレマン人の村である。一方、グラウビュンデンの方も首都クールを中心に、ドイツ語化が進行する。それまではグラウビュンデンはあらゆる領域でイタリアと密接に結びついていた。しかしフランク王国時代また神聖ローマ帝国時代には、ますますドイツおよびドイツ語圏とのつながりを強めていく。しかしこれですでに現在の言語分布の原形ができたというわけではない。13世紀、スイス建国の前夜、スイス国内にもう一つの住民移動が行われる。すなわちアレマン人の上部ヴァリスの地からさらにアルプスの高峰を越えて、南に東に新しい生活の場を求めて移動する人々がいる。この人たちをヴァリス人と区別して、ヴァルヌ人と呼んでいるが、彼らはイタリア語圏さらにレト・ロマン語圏にまで足を伸ばし、いくつかの新しい地に定着を始める。今も残るテシンやグラウビュンデンのドイツ語の言語島はヴァルザー人たちの移住の跡を物語っている。