第14回  研究報告会 報告要旨

「バーゼルとニーチェ」

報告者 曽田 長人


▽日 時:1996年2月17日(土)15時30分〜18時30分
▽場 所:日本女子大学 文学部史学科演習室


 フリードリッヒ・ニーチェは1869年から1879年にかけて古典文献学の教授としてバーゼル大学において教鞭を執り、バーゼルの知識人(バッハオーフェン、ブルクハルト、オーヴァーベックら)と交際した。折しもこの時期にはドイツ第二帝国がその誕生を祝い、首都ベルリンにおいては自由主義的な歴史学派によって組織化された専門的学問研究が行われ始めていた。本報告においてはバーゼル(スイス)とベルリン(ドイツ第二帝国)の間に存在した政治的−知的な対抗関係と、ニーチェの思想との関連を追うことにした。

 ドイツ語圏における長年の政治的不統一は、文化国家という理念を生み出した。政治的実践から距離を取ったドイツ文化の自立性は啓蒙主義の時代に入って漸く変化の兆しを見せ、封建的な身分秩序を越えたコミュニケーション形式である公共の討論空間が大都市において部分的に実現し始めた。この変化に付随する都市の近代化は、個人化(Individualisierung)と大衆化(Vermassung)という二面を伴った。すなわち封建的束縛から解放され始めた市民は一方で自己実現のための権利(例えば参政権)を要求しながらも他方で大衆の中の一員として統一的−規範的尺度を押しつけられるようになった。ベルリンにおいて典型的に見られたこうした近代化に対して、バーゼルにおいては古代ギリシャのポリスまたはイタリア・ルネサンス時代の都市に譬えられる教養貴族主義の伝統が残っていた。近代化の煽りを強く受ける前の伝統の中で個人化と大衆化の分化つまり近代の問題を封建的身分秩序に戻ることなく批判することが、バーゼルにおいて可能であったように思われる。

 バーゼルとベルリンの知的風土の対立点は、主に二つ挙げられる。まずバーゼルにおいては個人の教養を、たとえディレッタンティズムであっても重視する伝統が人文主義の時代以来息づいていたのに対して、ベルリンにおいてはすでに述べたように専門家による細分化された学問研究がドイツ第二帝国からの財政援助を受けて大規模に推進されていた。次に歴史観の相違が挙げられる。バーゼルの知識人が共通して近代世界とその起源(バッハオーフェンにおいては父権制の起源としての母権制、オーヴァーベックにおいては神学研究の起源としての原始キリスト教、ニーチェにおいてはソクラテス以後の主知的文化の起源としての神話的世界、ブルクハルトにおいては歴史的事象に共通した起源としての「典型的なもの」)との断絶を異なる観点からとはいえ強調し、近代世界の存続を条件つきで認めるもののその起源の忘却に断固として反対したのに対して、彼らバーゼルの学者とそれぞれ対抗したベルリンの学者(モムゼン、ハルナック、ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ、ヘーゲル)は近代世界とその起源との連続性に基づく進歩史観に立脚した。こうした歴史観の相違の背景には、それぞれの政治的−知的風土が正当性を汲み出す源泉である学問の自己理解が控えていた。すなわちプロイセン(ドイツ第二帝国)の政治的伸張は学問−歴史の進歩と容易に重ね合わされたのに対して、大国ドイツからの脅威を感じていたバーゼルの知識人は近代の学問−歴史の発祥「以前」の場(例えば神話)つまり周辺の強大な国民国家の対立を越えた(または対立以前の)普遍的基底へと注目したのである。

 こうした普遍性は時代の流れと逆行した保守的なものに見えるが、世界市民主義と密着した個人主義として古代ギリシャあるいはイタリア・ルネサンスの時代に文化の高度な発展をもたらした。当時は自由な精神の持ち主が国境を越えて交流し、多様性に基づいたヨーロッパの自己理解が可能だったのである。後年ニーチェは自らを「良きヨーロッパ人」と名づけ、近代以前の文化的伝統へ回帰する姿勢を明らかにする。1871年の普仏戦争の際ニーチェはプロイセン側に志願したが、従軍経験の結果プロイセン(ドイツ第二帝国)を「文化にとっては甚だ敵対的な力」と見なしバーゼルの思想的伝統と連なったのである。

 ニーチェの汎ヨーロッパ的文化への開眼は、スイスが置かれていた特殊な文化−政治的状況と関係づけることが出来るかもしれない。ドイツにおいて「政治的統一なき文化的統一」(の理念=文化国家)が十九世紀に至るまで展開を見、啓蒙主義の時代に成立した公共の討論空間はこの理念をドイツの政治的統一へと関係づけることが出来なかったのに対して、国内に複数の言語圏を有するスイスにおいては逆に「文化的統一なき政治的統一」が現実だったのである。スイスにおけるこうした多様性に基づく文化の自己理解は、ニーチェが構想したヨーロッパ文化とある程度共通するものであったとも言えるだろう。

 とはいえニーチェはバーゼル(スイス)を独立した文化空間として認めそこに根を下ろすことはなかったように思われる。ブルクハルトやバッハオーフェンが専門的学問ではなく教養、知識の客観的部分ではなく個人と共同体の文化に仕えることを望み、彼らの知的活動が専門家あるいは大衆のような匿名の人々によってではなくバーゼルの市民によって享受されることを願ったのに対して、ニーチェは自らの思想が教育活動などを通して広がる啓蒙の成果に対して懐疑的であった。というのは彼は一方で言語が現実を畢竟写しだし得ないという認識を深め、他方でバーゼルにおける個人的教養の内実に失望して行ったように思われるからである。ニーチェによるこうした思想の伝達手段(言語)に対する懐疑は、自らの思想が大衆化されることへの恐れとともに、思想を伝達する限界を克服し行動する偉大な個人への渇望と結びつくことになる。ニーチェが当初近代における偉大な個人と見なしたワーグナーは、近代において偉大であろうとすることが大衆化を伴うことを極端な形で体現することとなった。ニーチェは大衆化と結びついたワーグナーの個人性に失望し、彼を後年近代性 (Modernitat)の具現者として批判することになる。

 ニーチェのバーゼルにおける生存は、一方で彼にベルリンの文化に対して距離を取らせ根底的な近代批判を行わせ普遍的なヨーロッパ文化という思想へと導いたが、バーゼルにおける公共の討論空間の不十分な発達は他方で彼に大衆化なき個人化を夢見させ、彼の近代批判が実践に移される時必然的に大衆化を伴わざるを得ないことについての反省を困難にさせたのではなかろうか。