第15回 研究報告会 報告要旨
▽日時:1996年6月29日(土)15時20分〜18時40分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科演習室
フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)が、1900年前後の数年間、スイス・ロマンド地方、フランスのジュラ県、オート・サヴァワ県など、ジュネーヴ近郊を精力的に歩き方言のフィールドワークをしたことは、残された調査ノートから知られる。この調査は、40箇所にわたる調査地で、各地点につき五名のインフォーマントにたいし、同一の語彙の発音を尋ねるという、本格的なものであった。1901年11月20日(フランスはドレフェス事件の渦中)には、フランス領ジェックス地方の小村セニーで調査中に、村人からスイスのスパイの嫌疑をかけられるという事件が起きているが、ソシュールが村長に宛てた弁明の手紙の草稿には、「総合的著作の対象であるスイス・ロマンド地方の俚言」という表現がある。結局その種の書物が書かれることはなかったとはいえ、ソシュールは成果を書物にまとめるつもりだったらしい。こうしたソシュールの方言研究は、これまで、ソシュール研究者のあいだでさえも、ほとんど注目されることがなかった。確かに、言語一般にかんして極度に本質論的な思索に沈潜していたソシュールが、地道な方言研究を熱心に遂行していた事実は、一見奇妙に見える。それは偉大な学者のささやかな余技の類だったのだろうか。私はそうは思わない。
第一に、彼の方言研究を言語学史のパースペクティヴの中に置きなおして見るなら、その先駆性が浮かび上がってこよう。19世紀のドイツを中心とした比較言語学は、インド・ヨーロッパ諸言語の比較を通して、それら諸言語が発生した始源として想定される「祖語」を復元することを根本的な志向としていたため、古言語の文献資料を重視し、現存する方言を軽視していた。まれに方言に関心をよせることがあっても、過去の言語に遡行するための手掛かりという範囲にとどまった。方言じたいが学問の対象として発見されたのは、そんなに古いことではないのだ。「言語地理学」の樹立者と見なされているジュール・ジリエロン(1854-1926)が、E・エドモンを調査者にフランス全土にわたる学術的な方言調査を開始するのは、1897年であり、その成果として『フランス言語地図帖』が刊行されるのは、1902年から1923年にかけてである。ジリエロンは、ソシュールと同世代のスイス人であるばかりか、パリの高等研究院に留学してロマンス語研究の権威ガストン・パリス(1839-1903)に学び、ここで方言学を教え(1883年)、パリスから方言調査の支持を得ている。これはソシュールが高等研究院に留学生および講師として在籍した期間(1880-1891)と重なっており、またパリスは、ソシュールのレジヨン・ドヌール勲章授与(1891年)のためにフランス政府にはたらきかけた人物でもある。のちにソシュールは、第三回一般言語学講義(1910-1912)のなかで『フランス言語地図帖』に言及しているが、管見するかぎり、パリ時代のソシュールとジリエロンの関係の有無を問題とした研究は無い。ソシュール学の今後の課題である。いずれにせよ以上のことから、ソシュールの方言調査が、学術的な方言研究の草創期における試みであったことが分かる。
さらに注目すべき点は、ソシュールの方言調査が、極めて根源的で画期的な洞察に裏打ちされていたことである。そのことは早くも、ジュネーヴ大学の「インド・ヨーロッパ諸語歴史比較言語学」担当講師就任を記念して1891年11月になされた、三日間にわたる公開演説のなかに看取できる。初日と二日目の演説で、言語が特権的な始点も終点もない恒常的な差異化として存在しており、「ラテン語」と「フランス語」というような通時的境界画定は無意味であると説いたソシュール(パリスの名を引いている)は、三日目の演説において、ジュネーヴ近郊の方言の例を引き合いに出し、言語を考える際に人々が前提としていた境界や位階を、今度は空間軸にそって、およそつぎのように解体している。1.「公用語」とは、政治的理由や商業的理由によって特権化された方言のひとつにすぎず、方言を公用語の訛化と考えたり、公用語と比較して醜いと見做したりするのは誤っている。2.方言の境界線を引こうとするひとが行っているのは、方言のなかから部分的な特徴のみを取り出して比較することであり、選択する特徴しだいで境界線は際限なく変化しえる。したがって、「方言」というのは「空想的な単位」にすぎず、「地理的には存在しない」。3.
したがって、「フランス語だとかイタリア語だとか呼んでみたい方言のあいだに境界線はない」。ソシュールは、おのれの現存方言へのまなざしが、比較言語学の進化論的パラダイムからの訣別のうえに成立していることを自覚していた。そのうえ、方言の共時的認識は、「方言」とか「国語」といった境界画定そのものが無効となる時空において言語存在を考える困難でラジカルな試み(1893年頃の「『書物』草稿」や1907年からの一般言語学講義は、まさしくそうした試みだ)へ、ソシュールを引き込むものであった。
ところで、思想を環境へ帰する還元主義への警戒を怠らなければ、共同体の境界画定にひきずられずに言語を考える立場をソシュールに許した歴史的・社会的背景として、彼の「フランス語」に対する特異で微妙なスタンスを想像してみることは許されよう。スイスは、様々な特有語のあいだに「なんとかして統一を打ち立てようとする国家(フランス)」と対照的な国家、「特有語すべてを放任する国家」である(第二回一般言語学講義)。フランス人にとっての「フランス語」が容易にナショナルな自己同一性を形成するのと異なり、スイス連邦へ帰属して日の浅いジュネーヴ人に取り、「フランス語」はフランスへの自己同一化を意味しないばかりか、スイスへの自己同一化とも直結しない(H・アミエルは『日記』のなかでジュネーヴ知識人としての自己同一性にかんする動揺をしばしば吐露している)。そのうえソシュール家は、宗教改革の時代にフランスから亡命してきたユグノー貴族を先祖とする(1556年にローザンヌのブルジョワジーとなり、1635年にジュネーヴのブルジョワジーとなった)。ソシュールは「ジュネーヴ」という共同体の内部に自足することもできなかったはずだろう。ちなみに、彼がコレージュ・ド・フランスの教授の席を辞退しジュネーヴへ帰った理由のひとつには、スイス国籍を捨ててフランス人とならねばならないことに対する抵抗があったとも言われている(E・ファヴル)。共同体の論理による言語の境界画定を疑うことは、ソシュールにとり、ジュネーヴにおける亡命フランス人の末裔としての屈折を潜ませた視点を深化させることでもあったように思われるのだ。