第16回 研究報告会 報告要旨
▽日時:1996年10月26日(土)15時25分〜18時10分
▽場所:早稲田大学文学部 34号館 第3会議室
ブルクハルト(1818-1897年)は、1843年の入会から約50年間にわたってバーゼル市における歴史協会の正会員として活躍した。同協会が主催する公開講演に最晩年にいたるまで毎年登壇したことは、彼の協会にたいする理解と熱意を伺わせる。このことは従来研究者から看過されてきた伝記事項であるが、彼の史学思想をドイツ史学史のなかに位置づけ評価するにあたって重要な史料を提供している。なぜなら、ドイツ語文化圏各地に200あまりも誕生したこの歴史協会こそが、講壇史学から忌避されたドイツ史学史の裏面史を構成するものだからである。
全ドイツ大学に波及したジーベル型歴史学ゼミナール教育を通じて、19世紀ドイツ史学界は歴史学の「科学」化と職業化を急速に達成した。それにより、史料の科学的操作を身につけた均質な職業的専門家集団が史料編纂事業・歴史研究を独占し、新興学問としての歴史学は近代科学としての確固たる地位を確立した。だが、この過程は同時にまた、専門家集団を保護する国家の歴史学支配が貫徹する過程でもあった。ドイツ国家統一問題を背景にドイツ史学界から国家史学と相容れぬさまざまな歴史研究活動が放逐されたが、そのなかに、歴史協会の活動があった。都市やラントなど小さな行政区単位に18世紀末から19世紀にかけて結成された会費制団体である同協会では、アマチュアの歴史愛好家による郷土史研究・史料編纂が行われ、今日の社会史・地域史研究に貴重な史料を遺した。しかし、19世紀当時のドイツ専門史学者には、歴史協会の価値は理解されていなかった。むしろ協会のアマチュア性は歴史研究の「科学」性、専門職性を脅かし、郷土史研究は地方分権の思想的温床として国民統合に障害をもたらすものと目された。専門史学者は歴史協会への参加を拒否し、これとは別個に専門研究者だけを会員とする歴史学委員会を組織し、その豊かな財源に支えられた大規模な学術生産活動を通じて歴史協会を圧迫した。以後、ドイツ史学界はプロとアマの相互交流を欠いた二重構造をとることになる。
ブルクハルトの歴史協会参加が、ドイツとは状況を異にするスイス史学界の在り方を反映していることはたしかである。スイス連邦における四八年憲法採択後の政治的安定は、史学の政治化・国民史の正統史学化を阻み、緩やかに進行した職業化は、プロとアマの交流を保持しながら各州歴史協会と全国協会(AGGS.)との有機的関係を実現していた。だが、協会参加という社会的実践は彼の史学思想と不可分であり、彼の歴史協会擁護論はブルクハルト史学の根幹を明らかにする手がかりを与えるものである。ブルクハルトの歴史協会擁護は彼自身の時代判断と史学観を基礎としている。ドイツ専門史学者が忌避した協会の側面に彼が積極的意義を認めたことは、注目に値する。すなわちアマチュアによる郷土史研究である。
ブルクハルトは同時代を「革命時代」と規定し、工業化を含む社会・生活全般の根本的変化を時代の本質としたが、この変動そのものに歴史協会叢生の必然性を求めた。伝統的社会秩序の解体と生活の激変は、過去の桎梏からの解放だけでなく、価値の無政府状態を将来し、生活を組織化する指針の喪失をもたらした。この状況を背景に、自らの存在に内的根拠を与え、社会生活に判断基準と秩序の基をもたらすものとして生活世界に根差した郷土史研究に関心が集まるようになる。ここに、ブルクハルトは歴史研究がもつ教育=社会秩序形成機能を認識し、この機能に歴史学の本質と現代的・社会的意義を感得した。彼が「高次の実用主義」と呼んだそのような歴史研究の在り方は、学問と生との密接な関係を前提としている。そのため、それを担えるものは歴史学のプロではなくアマチュアであると彼は判断した。プロフェッショナルな歴史研究を成り立たせている「科学」化と職業化が、生からの学問の分離・自立化を企図しているからである。アマチュアがもつ積極的意味は、それがプロ研究がなしえない歴史研究を遂行する可能性を有する点にある。ブルクハルトは革命時代の歴史家として、自らの役割をそのようなアマチュア歴史研究の手ほどき・支援に求めた。入会資格を問わない社交団体である歴史協会は、アマチュアとの自由な交流の場を彼に提供したのである。
ブルクハルトがアマチュア研究の方法として提唱したものが文化史学の歴史研究方法であり、これはドイツ史学が「科学」化・職業化の過程で喪失した教育=社会秩序形成機能の保持を意図して構築されている。歴史研究が教育力として存立しうるのは、現在の経験を歴史的観点から評価する基準を与えるためである。刻々と生起する現在の断片的経験の史的意味は、より恒常的で広いパースペクティブをもった過去の総体と関係づけられてはじめて認知される。そのために、歴史学は個々の微細な史実の精確さよりも全体性をもった統一的歴史像を提示しなければならない。歴史の究極の目的にたいして不可知論をとるブルクハルトは、歴史を横断面から把握した独特の類型的考察方法によってそのような統一的歴史像を確保しようとした。このような文化史的方法による歴史研究は歴史を通じての自己認識を可能たらしめる。史的自己認識は、他者との切断によって成立する近代的自我意識の在り方を相対化することによって、精神の次元における共同性の回復を促す。それゆえ歴史研究は人倫的なものを実現する社会基盤となるであろう。このような、国家の強制力ではなく社会の力によって自発的に形成される秩序に、ブルクハルトはヨーロッパ的精神文化の土壌をみていた。ドイツ史学が近代科学としての歴史学の構造を国家との結合によって構築した時代に、ブルクハルトは科学以前の機能を再興することを通じて、あくまで社会に根差した歴史学を求めたのである。