第22 回 研究報告会 報告要旨
▽日時:1998年4月11日(土)14時15分〜17時40分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科共同演習室
今日のスイスの政治制度は, 多極共存型ないし「談合」型であり, 単純な多数決制をとっていない。その背景のひとつは, 16世紀から18世紀初頭まで続いた宗派対立とその解決の経験であった。
スイスでは中世後期に, 教会法の影響を受けて, 多数決制が都市・農村を問わず各地に浸透した。諸邦の代表が集まる盟約者団会議でも,
宗教改革にいたる時期までに, この議事決定方法が少なからず用いられるようになっていた。しかし, 宗教改革は, これに大きくブレーキをかけた。数の上で劣勢な改革派諸邦が,多数決原理に根本的な異議を唱えたからである。とくに問題になったのは,
諸邦が共同で統治する共同支配地の宗派的帰属をどう決めるかであった。カトリック諸邦は, 盟約者団会議による多数決を強く求めた。改革派側(とくにチューリヒ)は,
共同支配地の住民自身(教区共同体単位)による多数決を求めた。第一次カッペル戦争後の第一平和条約(1529年)では, チューリヒの主張が通った。改革派の多数派工作が成功した共同体では,
カトリック教徒は礼拝の自由を奪われた。1531年の第二次カッペル戦争では, 今度はカトリック諸邦が戦勝したため, 共同支配地のカトリック少数派に礼拝の自由が認められることになった(第二平和条約)。同時に彼らは,
教会財産を宗派人口比に応じて分与された。一方,カトリックが多数派の共同体は, 改革派を無権利状態に追いやった。その後, 宗派間のもめ事は,
共同支配地においても諸邦においても, また盟約者団全体においても絶えることがなかった。盟約者団会議には亀裂が入り, 宗派別の分離会議
が常態化した。16世紀後半には, アペンツェルで邦分割――2つの半邦の形成――が行われ, 17世紀にはグラールスで両宗派による「統治権分割」――邦としての一体性は形式的には維持された――が行われた。これは邦単位の両宗派同権体制の端緒であった。
17世紀には, 共同支配地にも変化が起こった。1632年のバーデン協定によって, 共同支配地(トゥールガウとラインタール)に関して, 宗派問題を「両宗派同数」の仲裁裁判に委ねる措置がとられ, 両宗派の対等性が保証されることになったのである。しかし, 何が「宗派問題」であるかは微妙であり, 争いはその後も続いた。
1656年の第一次フィルメルゲン戦争の結果結ばれた第三平和条約は, ほとんど見るべき成果をもたらさなかった。決定的な転機は, 改革派側が戦勝した1712年の第二次フィルメルゲン戦争によって訪れた。そのさい結ばれた第四平和条約には, 両宗派同数制の仲裁裁判の適用事項を共同支配地の行政全般に拡大することが規定された。また, 官職を両宗派同数ないし輪番にすること, 宗派人口比に応じた教会施設利用を規定すること, 宗派別学校の設立を認めることなども盛り込まれ, 宗派問題は現実に解決されるようになる。宗派問題の解決のために旧盟約者団諸邦が徐々に進めていった仲裁制度, 同数制・輪番制, 比例配分制などの調整型の政治は, 19世紀以降のスイス民主政治にも少なからぬ影響を残すことになる。