[第23回] 研究報告会 報告要旨

「1860年代の民主化運動−カントン・チューリヒの場合−」

報告者  関根照彦


▽日時:1998年7月4日(土)14時20分〜17時30分
▽場所:日本女子大学 図書館4階 第一演習室文学部史学科共同演習室


 スイスのカントンにおいて近代的意味での法律ヴィートー・法律レファレンダム・法律イニシアティヴなどの制度が導入されたのは「新生の時代」(1830〜40年代)のことだった。しかし、この時代多くのカントンは依然、純粋代議制政体を採用していた。バーゼル・ラントで始まり、1869年にチューリッヒで実現された民主化運動は、このような事態に大きなインパクトを与えることになった。

 チューリヒの民主化運動は、直接的にはアルフレッド・エッシャー体制への批判として展開された。だがそれは1831年憲法の改革運動でもあった。1831年憲法は新生の自由主義時代の作品であり、統治の基本原理として議会優位の代議制民主主義を採用していた。選挙方式は、直接選挙と自己補充方式の混合形態であり、議席配分においてチューリヒ市を優遇するものだった。

 1831年憲法下において、チューリヒは、3つの政権の時代(第一次自由主義の時代、保守政権の時代、アルフレッド・エッシャーの時代)を経験した。エッシャーの時代はチューリヒ経済繁栄の時代でもあった。エッシャーは、有能な政治家・実業家であり、たぐい稀なリーダーの資質を備えていた。彼は、連邦においてもチューリヒにおいても、政・財界で権力を独占することに成功した。しかし、エッシャーへの権力の集中は独裁化と政治腐敗をもたらした。

 こうした中で、1860年代の初めから序々にエッシャーの「システム」に対する反対運動・民主化運動が広がっていった。システムに対する批判は、圧倒的優位に立つ首都チューリヒ市に対する批判であり、無秩序な経済の自由放任主義に対する批判であり、国民の声を代弁し得ない代議制民主主義に対する批判でもあった。民主化運動の中心はヴィンタートゥール市だった。

 1867年12月、反政府運動は、憲法の全面改正を求める憲法イニシアティヴへと発展し、憲法会議が設置され、1869年4月の国民投票を経て新憲法が制定された。

 新たに制定された1869年憲法は現実主義的憲法だった。それは、充実した基本権カタログや、いくつかの社会国家的性格をもつ憲法条項を有していた。しかし、その最大の特色は、チューリヒの政治制度を(半)直接民主制化した点にあり、非常に包括的な形で、義務的レファレンダム制度とイニシアティヴ制度を導入した点にあった。

 カントン・チューリヒの民主化運動は他のカントンにも大きな影響を及ぼし、以後、多くのカントンで半直接民主制度が普及し、今日のスイス民主主義が形成されていった。