[第24回]

「ジュネーヴにおける柳田国男−言語問題を中心に−」

報告者  岡村 民夫


▽日時:1998年10月17日(土)14時15分〜17時50分
▽場所:日本女子大学 文学部史学科共同演習室


 第一次大戦後、ドイツとトルコの旧植民地は、聯合国側各国が国際聯盟による委任という形式で分割・統治することになる。赤道以北旧ドイツ領太平洋諸島の統治を受任した日本政府は、各受任国の委任統治状況を審査する機関「国際聯盟常設委任統治委員会」の初代委員に、貴族院議員を辞したばかりの柳田国男を指名した。一旦は辞退したものの柳田国男は結局この役を引受け、1921(大正10)年5月から10月までと1922(大正11)年6月から1923(大正12)年8月まで、一時帰国を挟みながらも、ジュネーヴを中心にヨーロッパにあしかけ三年滞在した。柳田45歳から48歳にかけての、最初で最後のものとなる、企図せざる滞欧経験を対象とした研究は、近年まで皆無に等しかった。だが、この時期は、まさに柳田の思想的過渡期、学問的関心が先住異民族としての「山人/山/北方」から、稲作を文化的基盤とする「常民/島/南方」へと方向を転じつつあった時期に重なっており、滞欧体験は思想的展開に深く関与したものと考えられる。この観点からもっとも注目にあたいするのは、柳田が直面した言語問題であろう。

 委任統治委員会における公用語である英語とフランス語をすでにかなり習得していたとはいえ、権謀術数が渦巻く国際政治の場において巧みに「話す」ことは、柳田にとって所詮無理な要請だった。帰国直後になされた国際聯盟体験についての講演会では、「怒りも喜びも自分の言葉と同様に、隠れた隈もなく表出し得るようにならぬかぎり、結局は「彼をしてわが語を用いしめんのみ」、わが語を用語とした国に一籌を輸することになる」と語ったという(「ジュネーヴの思い出」)。ジュネーヴで彼は、特定国語の公用語化を可能とするとともに公用語化によってさらに強化される。植民地主義的権力のはたらきを、弱者の立場において体験した。いいかえれば、中央の標準語使用者として地方の方言使用者に対していたエリートが、英仏語使用者を前に「日本語という方言」の使用者として自己を再発見することを強いられたのだ。

 柳田がエスペラント語と方言という一見対極的な言語現象に対して強い関心を示したことを、私たちは以上の点から理解することができよう。エスペラント語への関心は、1921年秋に表面化し、翌年5月からエスペラントの学習が始まる。さらに柳田は、エスペラント語を国際聯盟内の公用語とする運動に加担、国際エスペラント語協会創設メンバーのひとりでジュネーヴ大学講師でもあるE・プリヴァと親交を深め、「ステロ」というエスペラントの会の会員となって、エスペラント語による演説さえ試みている。柳田のエスペラント語熱の一般的背景としては、第一次世界大戦後のエスペラント語運動の国際的盛上がりと、ジュネーヴがその一中心をなしていた事実を指摘できるが、主体的動機は、英仏語が幅をきかせる国際聯名の場で「これなら自分でも思ったことが言える」と希望を抱いたことにほかならなかった(「同」)。

 方言にかんして、まず注目されるのは、委任統治員会第三会会議(1923年7月から8月)に提出した英文報告書「委任統治領における原住民の福祉と発展」のなかで柳田が、委任統治領の各地域に満足すべき標準語が確立されておらず、異なった方言のひしめきあいが行政や教育・意思の疎通の障害となっているという問題を取り上げたことだ。受任国(イギリスとフランス)が自国語を原住民に標準語として課す政策には、原住民のあいだに「文明国民と接触している階層と、そうしたことのない階層」という階級分裂を引き起こすという難点があり、一部族の方言を標準語として制定する政策には、部族間の覇権闘争を刺激するという難点があるとしつつも、学習の容易さや特権階層の形成の防止などを理由に、柳田は後者を推奨する。つまり、委任統治委員会における自分の立場を原住民の立場に、日本列島を日本が委任統治する南洋諸島に重ね合わせながら、植民地問題、方言/標準語の問題、南洋諸島の文化的多様性の問題等を考え、西洋の大国に提言をしているのだ。ここにはすでに、国聯の仕事を通して被った傷の癒しばかりか、加害者に対する反撃の動きさえ窺われる。「大陸の連中」(西洋人)が理解できない「島というものの文化史的意義」を内在的に理解する学問を確立することが、「島」の民族としての日本人の使命であり特権である(「ジュネーヴの思い出」)という認識にいたるには、柳田が自分の視点を日本人に固有の視点と解釈しさえすればいいだろう。

 こうした言語政策論は、舞台を日本国内に移して国語教育論(話し言葉を重視とした標準語改革により、方言を発展的に解消させるプログラム)に引継がれることになる。また、柳田が後半生をその確立のために捧げた「日本民俗学」とは、まさに「島」の民による「島というものの文化史」研究だ。ただし、そこで日本の文化的多様性の認知は、あくまで「常民」の同質性という概念に抵触しない枠内に限定さる結果となった。おそらく、この制限は、ジュネーヴ時代の彼が南洋諸島の植民地化の要因を未統一性に見ていたこと、つまり島的な多様性に対し魅力と同時に危機感を抱いていたことに由来している。

 ところで、多様性を注視しながらそこに同質性を透視するような方法を、柳田に示唆したのは、彼がジュネーヴ大学教授E・ピタールの人類学の講義の聴講を通じて出会った「言語地理学」ではなかったろうか。当時創始されたばかりだった言語地理学とは、単純化していえば、方言の分布を地図上に表現し、それをもとに人文地理的諸条件を考慮しつつ言語の歴史を明らかにしようとする学問である。帰国後、柳田は本格的に日本の方言研究に取組み、成果を『蝸牛考』(1927/1930)として世に問い、方言学に多大な影響を与える。序文では、無数の小島や谷の存在による方言の「著しい異同」こそ、「世界の何れの部分にも越えて、殊に言語の調査を綿密にする必要」が日本にある理由であると、説かれているが、全体の眼目は、そうした地理的多様性を、京都という政治・文化的中心地でなされる語彙の更新が同心円に周囲に広がってゆく結果として解釈することにある。柳田自身の学問上の展開という次元で、決定的な意義をもつと思われるのは、共時的差異が同一事象の到達時点の差異に還元された点に加えて、「日本語」という対象選定により、アイヌ文化が度外視され、同質性の範囲が「日本」として画定された点だろう。(国語論との相補性)。言語地理学的研究方法は、以後さまざまな変形を被りながらも、民俗語彙の分布調査と比較を中心にすえた「民俗学」の方法へ応用・展開されてゆく。その果てに柳田は、南東から島づたいに北上した「稲の民」として「日本人」の原像を描き出すにいたるだろう(日本語と沖縄語を区分する論に対し、柳田は沖縄語は方言であると主張した)。