[第25回]

「都市を農村市場へ −1653年スイス農民戦争における小都市ヴィートリスバハの破壊−」

報告者  岩井 隆夫


▽日時:1998年12月5日(土)14時30分〜17時15分
▽場所:日本女子大学文学部 第一演習室


 1653年のスイス農民戦争末期において、反乱農民軍の集結していたベルン邦の小都市ヴィートリスバハ(Wiedlisbach)が諸邦の連合軍によって破壊された。パイヤーはこの歴史的事実を、都市に対する盟約者団諸邦のこうした消極的な対応の事例の一つとして挙げ、次のように述べている。
 「ひとたび従属都市が明確な反抗を示せば、支配都市の手は厳しく伸びた。ベルン邦の小都市ヴィートリスバハは1653年の農民戦争の際に農民に与した。市壁と市門は破壊され、都市特権(Stadtrecht)は奪われ、以後集落は村落共同体として扱われた。しかしながら市場は存続した。いうまでもなく、ベルンはその領域内にそれ以上の、もしくはましてや反抗的な防御施設で固めた集落をなんら望んでいなかった。」
 ここでパイヤーはスイス農民戦争における都市ヴィートリスバハの破壊について、異なる三つの歴史的事実を指摘している。一つは市壁や市門といった防御施設が物理的に破壊されたという事実であり、もう一つは都市特権が剥奪されることによって法的に破壊されたという事実であり、そして最後は、都市として破壊された以後も市場定住地としては存続したという事実である。
 ヴィートリスバハは中世の段階において、防御施設が十分な形で整備され、都市特権を賦与された市場定住地であった。スイス農民戦争においては、まさにこの防御施設と都市特権が剥奪されることになる。
 ヴィートリスバハの物理的破壊についてパイヤーが典拠としているのは、以下に挙げる二つの文献における記述である。
 一つは、『スイス歴史人名事典』における、都市ヴィートリスバハの事項についての記述である。
 「[ヴィートリスバハは]1653年の農民戦争では、不満分子(Unzufriedenheit)の中心と目された。懲罰のために将軍フォン・エルラハ(von Erlach)は6月5日にヴァンゲン(Wangen)からやってきて『極悪反乱者の巣(Erzrebellennest)』ヴィートリスバハを略奪した。」
 もう一つは、R・フェラーの『ベルン史』における記述である。
 「エルラハは『極悪反乱者の巣(Erzrebellennest)』ヴィートリスバハを自分の軍隊の手にゆだねた。ヴィートリスバハは銀の財宝(Silberschatz)と市門を失い、都市共同体から村落に転落した。」
 「極悪反乱者の巣」という表現を用いている人物は、この記述の中に出てくる鎮圧軍の将軍エルラハ(Sigmund von Erlach)である。
 ヴィートリスバハの破壊が行われた翌日の6月6日に、エルラハはベルン市当局に向けて、その勝利を次のように報告している。
 「昨夜我らは有り難いことに幸運にもヴァンゲンに到着し、同地をさしたる困難なく押さえ、さらに1、200名の歩兵と騎兵により極悪反乱者の巣ヴィートリスバハ内へ進入した。」
 次に、「都市から村落に転落した」という表現の典拠は明らかにされていないけれども、スイス農民戦争の同時代史料の一つであるB・ハラー(Berchtold Haller)の日記に次のような記述がある。
 「この軍隊は[中略]続いて小都市ヴィートリスバハを攻撃し、市門を除去し、囲壁を取り壊し、したがって小都市を村落にした」
 同じような表現は当時の大学生M・フーバー(Markus Huber)の日記に見られる。
 「同夜[6月6日の夜]伝えられたところによれば、反乱者は数千人も集まっており、前日にはモルロの連隊の歩兵と騎兵によりヴィートリスバハは襲われ、すべて奪われ、市門は取り壊され、したがって開け放たれた町にされてしまったということである」
スイス農民戦争後の18世紀末までの時期において、都市ヴィートリスバハの都市法ないしは都市特権の剥奪を直接に示す史料は存在しない。パイヤーが典拠としているのは1786年の都市邦ベルンの市場リストである。この市場リストは都市邦ベルン(現在のベルン州、アールガウ州およびヴォー州)の市場定住地のすべてを都市と村落に二分しており、ヴィートリスバハはビップ郡代官区に含まれる村落として扱われている。したがって、ヴィートリスバハは農村市場として位置づけられており、このことを根拠として、パイヤーはヴィートリスバハの都市法ないしは都市特権が剥奪されたと述べているのである。
ヴィートリスバハは都市として物理的にも法的にも破壊された以後も、市場定住地として機能を果たす。
 1703年の市場リストによれば、年市が5月の第2火曜日(5月8日)に開催されている。次に1786年の市場リストによれば、年市が5月13日(5月の第2土曜日)と10月28日(10月の第4土曜日)の2回開催されている。これらの年市は家畜市も兼ねていた。また、毎週木曜日に週市が開催されている。
 それではヴィートリスバハの市壁や市門などが破壊されたということはどのような意味を持っているのであろうか。
 パイヤーは歴史における市壁に関する研究を取り上げたサーヴェイ論文において、市壁などの都市の防御施設が有する意義については都市史の研究史上においては必ずしも十分に取り上げられてこなかったと述べている。
 その上で、都市の防御施設は何よりもまず都市特権の象徴としての意義を有していることを次のように説いている。一方では、都市領主や都市の敵対者による市壁の破壊はつねに重大なる制裁と屈辱と受け取られてきたとし、その一つの事例としてスイス農民戦争におけるヴィートリスバハの破壊を挙げている。他方では、都市の防御施設というものは農民にとっては農民を意識的に遠ざけたり侮辱的な取り扱いをするものであると把握されてきたとし、スイスでは14世紀末から19世紀に至るまで農民が都市や市壁を忌避する傾向が見られたとしている。