[第30回]

「亡命者の政治学ー18世紀ジュネーヴとJ.J.ルソー」

報告者  小林 淑憲


▽日時:2000年6月17日(土)14時5分〜17時30分
▽場所:日本女子大学文学部 第二演習室(4階)


 今回の報告の目的は、J.-J.ルソーの『社会契約論』を、18世紀ジュネーヴ共和国の政治的諸問題と極めて密接に関連することを検証し、もって同書が基本的にはジュネーヴの改革のために書かれたことを明らかにすることにある。
 
ルソーの政治思想とジュネーヴとの関連性を扱った研究は、ヴァレット、ロ、ルメートルらの諸研究から、ルセルクル、リー、ゲイ、スピンク、ドラテ、ローネー、フラリン、デュフールの研究に至るまで、文字通り枚挙に暇がない。それらの中で、1997年に発表された、H.ローゼンブラットの『ルソーとジュネーヴ』は、数多くの一次資料を渉猟しつつ、議論を展開したという意味で極めて優れている。
 
しかし、ローゼンブラットの研究には以下の問題点がある。すなわち、もしもルソーが『社会契約論』においてブルジョワジーの利害を擁護したのであるとすれば、何故彼は著作をジュネーヴ国内では執筆も出版もしなかったのか、という問題である。ブルジョワジーの利害を擁護しようとするなら、彼らの支援を期待しうる国内で執筆・出版すべきだったであろう。しかしルソーはジュネーヴ人が帰国を再三促しても、あくまでも断り続けた。
 
そこで報告者は、上述の目的を達成するため、ローゼンブラットとは異なる独自の視点に立脚した。すなわちルソーは、一部の党派の利害を擁護するのではなく、ジュネーヴ全体と対峙するため、敢えて空間的距離を置きつつ、書簡と作品という二重の媒体によって、祖国の政治的諸問題と関わろうとしていた、という視点である。

この視点に立脚して、第1章では、まず18世紀ジュネーヴの政治的議論を検討した。当時のジュネーヴでは、1737年8月から翌年5月にかけて、国家支配層たる貴族と、国政の参加者であるブルジョワジーとの間で内乱が勃発したが、この内乱より以前からのジュネーヴにおける論点は、主権の帰属とその行使主体、定期総会の是非などであった。独自の理論を構築することによって、この論争に加わり、政府を擁護したイデオローグが、ジャン・バルベイラックとジャン−ジャック・ビュルラマキであった。彼らは主権が譲渡も分割も可能であると論じていた。
 
第2章では、内乱後、特に『ダランベールへの手紙』から『社会契約論』に至る時期のルソーとジュネーヴ人との往復書簡を検討することによって、『社会契約論』執筆の動機を明らかにした。内乱以前からの政治問題は、内乱以後も積み残されたままであったため、ルソーにとって政治論を展開するのは時宜を得なかったはずである。にもかかわらずルソーが『社会契約論』を1762年に出版したのは、ジュネーヴの牧師ムルトゥーと状況認識を共有し、祖国が堕落しつつあると考えたからであった。
 
第3章では、『社会契約論』そのものを扱った。同書の人民主権原理は、普遍的に妥当するように書かれ、論述形式は高度に抽象的である。報告者は、ルソーが彼の原理を普遍化させたのは、限定的な諸問題に対する解答の真理性を高めるためであり、論述形式を抽象化させたのは、支配的なイデオロギーと同じ位相、すなわち理論のレベルで応答する必要があったからであると考える。

ルソーの一般意思の用い方は、J.R.トロンシャンのそれと比較すれば明らかなように、ジュネーヴの政治問題と密接に関わっている。したがって、一般意思を用いて定式化された社会契約も、ジュネーヴの論点と重なるとみる必要がある。すなわちルソーは、プーフェンドルフやビュルラマキの二重契約を批判すべく、政府設立が契約に基づかないと論じた。さらに主権は譲渡も分割もできないとの議論もバルベイラックやビュルラマキの理論を斥けるためのものであった。また国家の堕落、死滅論とそれに対抗する措置の提案は、為政者の簒奪によって進行しつつあるジュネーヴの堕落を防止するための方策と考えられる。しかし、ルソーは単にブルジョワジーを擁護しようとしたのではなく、ジュネーヴの為政者、ブルジョワジー、牧師の全体と対峙して、新たな「国法の諸原理」を提示していた。そのことは、護民府や監察官、公民宗教などについての議論に窺うことができる。ルソーはこれらの制度を、国家の解体を阻止する方策として論ずることによって、ジュネーヴが国家として緊密に結合することを望んでいた。
 
このように、ルソーとジュネーヴとを隔てる空間的距離は、ルソーの思想と態度との一貫性を象徴するのであった。

◇報告の目次は以下のとおりである。

はじめに−ルソーの方法的自覚−
第一章 18世紀ジュネーヴ共和国の政治的議論−主権をめぐる論争−
 第一節 主権の帰属とその行使をめぐって
 第二節 正統的イデオローグ−バルベイラックとビュルラマキ
第二章 書簡による関わり−『ダランベールへの手紙』以後のルソー
 第一節 動機追究のための手がかりとしての書簡
 第二節 ルソーの堕落認識とムルトゥーの役割
第三章 『社会契約論』による関わり
 第一節 一般意思・社会契約・主権
 第二節 為政者の主権簒奪とその防止策
 第三節 ジュネーヴの「言説世界」総体との対峙
むすび