[第32回]
▽日時:2000年12月2日(土)14時15分〜17時30分
▽場所:日本女子大学文学部 第一演習室(4階)
1 1942年-1943年前半
日本参戦後間もなくのこの時期、スイスには外交官しか駐在していなかったが、彼らは独ソ戦の戦況に関し、ドイツの不利を伝える情報を、そのまま本国の外務大臣に宛てて報告し続けた。
☆1942年5月13日 徳永太郎スイス代理公使発 「ドイツは優勢を保てるかもしれないが、ソ連を打ち負かすことは出来ないであろう」
☆ 1943年3月3日 阪本瑞男スイス公使発「ドイツの生産力と軍事力はすでに限界に達した。ドイツの崩壊は時間の問題である」
一方日独提携を強力に進めるドイツの大島浩大使は大戦中、一貫してドイツの有利を訴える。例えば同時期にあたる1942年11月14日「ソ連はもう大規模なドイツの攻勢に耐える力はないであろう。来年にはドイツはコーカサスを手に入れ,ソ連を外界から遮断するであろう」と打電する。ドイツの指導者層から直接情報を入手する大島大使の方が、本国における影響力は格段と大きく,スイス情報が聞き入れられた形跡はない。
2 1943年後半―1944年
1943年秋になると反枢軸思想ゆえにドイツに居づらくなった邦人がスイスに移って来る。(朝日新聞の笠信太郎、横浜正金銀行の北村孝治郎)別の理由から岡本清福陸軍中将もスイス入りして陸軍武官室開設に動き出し,邦人の動きが活発化し始める。
1944年3月30日 北村は正金銀行本店に向けて「ここスイスではドイツの敗北は今年の9月とさえ言われている。日本は交渉によってのみ終結可能」と日本の終戦について触れ始める。彼はバーゼルを本拠地とする国際決済銀行の理事として、交戦中も業務としてアメリカの銀行家らと接触を続ける。また阪本公使のドイツに対する認識は昨年来常に悲観的であったが、1944年7月に病死する。
3 1945年前半
ドイツの崩壊が間近になると数々の名目で、邦人が多数スイスに避難してくる。うちベルリンの海軍武官室は一部機能を疎開させるため,4月上旬に若い藤村義一中佐を送りこむ。同じころスイス駐在のドイツ外交官が祖国の崩壊を目の当たりにして「日本はドイツと同じ運命をたどることなく,自分らの手で戦争を終結させるべきだ」と邦人外交官に助言し、彼らは心を動かされる。
そして阪本の後任である加瀬俊一スイス公使(かせしゅんいち、同名の外交評論家とは別人)を中心に、本国に向けて弱い調子ながら和平勧告を送り始める。当時日本の暗号電報を解読していたアメリカも「加瀬公使と北村理事は本国に和平を勧告することを厭わない様だ」と分析
する。
☆ 5月1日 加瀬俊一公使発
「アメリカの事情に通じた人物の情報によると、彼は今が日本にとってアメリカに接近する好機ではないかと考えている」加瀬公使はアメリカの情報機関のために働く人間とも直接接触した。
☆ 5月8日 三谷隆信フランス大使発(前スイス公使でドイツ敗戦直前にスイスに避難)「日本は速やかに米英と交渉に入り、受け入れられる条件を獲得すべきである」
☆ 5月14日 加瀬俊一公使発「米英は,ソ連の極東参戦の前に日本が終戦を迎えることに反対をしないであろう。方策として好ましいのは,ロシアに仲介を委ねることである」
7月9日 朝日新聞の駐在員である笠信太郎も、かつての上司である緒方竹虎元情報局総裁に長文の勧告電を送るが、外務省電信課で握り潰され,配布されない。笠は東京から返事のないことに業を煮やしたのか、7月20日には海軍の暗号電報で再度発電する。
7月26日に米英首脳によりポツダム宣言が発せられると、加瀬公使はその内容を検討し、本国に速やかな受諾を進言する。
☆ 7月30日 加瀬俊一公使発
「この宣言はドイツに対する場合と異なり、日本に一定の主権を認めているので、受諾して可なり」
3 海軍和平工作
一方軍人を中心に、交渉による和平を積極的に祖国に訴える動きがあった。その代表格は藤村海軍中佐であるが、彼の戦後の有名な手記は不正確な記述が多い。事実は以下の様だ。
☆ 1945年6月5日 第一電が米内光政海軍大臣に送られた。
「ルーズベルト大統領の特使でスイスにあるダレスより本官(藤村のこと)に対し、もし日本が和平を欲するなら大臣か提督クラスをスイスに送れ、アメリカはそのフライトの責任を持つという提案があった。この提案は真摯なもので受け入れる価値があると本官は考える」ダレスは当時スイスにあったアメリカの戦略情報機関「OSS」の欧州総責任者である。しかしながら当時の史料を見ても、ダレスが大臣級の派遣を提案した形跡はない。おそらくこの部分は藤村とその協力者フリードリッヒ.ハックによる創作である。
藤村は以降も積極的に働きかけるが、米国の謀略と考える本国からは7月22日、米内大臣名で「この件は外務省に移管した。海軍は今後表向きは一切この件に関与しない」と返電があり、その取り組みは終わる。自身らで考え出した「大臣をスイスに送れ」という内容があまりに唐突で、本国の不信を買ったようだ。また加瀬公使も自分の知らないところで進められたこの工作に対し、全く信頼を置かなかった。
4 陸軍和平工作
海軍と異なり最後まで本土決戦を唱える陸軍であったが、スイス駐在の岡本陸軍中将も和平工作を行った。
6月中旬、岡本は国際決済銀行理事を兼務する北村に接触し、同行スエーデン人理事パー.ヤコブセンを通じ同じくダレスに連絡がつく。そして仲介役のヤコブセンはダレスと直接会見し,岡本らの意向を伝えた。7月18日岡本は熟慮の末、梅津美治郎参謀総長に交渉による和平
を訴える。それを後押しするため加瀬公使も同月22日「現在自分は,岡本中将とは根本に於いて同意見にて、(このルートは)現下一の良き筋と認められる」と大胆に書き送ったが、日本からの反応はなかった。
岡本中将は日本終戦の日、チューリッヒの自宅でピストルで自殺する。それまでの自分の戦争への関わりに、責任を痛感してのことであった。
以上紹介した様にスイスの邦人はさまざまな形で、本国の戦争の早期終結を望み行動した。
戦後日本では藤村中佐の活躍のみがクローズアップされたが、その見方は不充分であることは述べてきたとおりである。
そして戦時下の海外邦人による和平への取り組みは、一部他国でもあったものの、こうした大きな動きはスイスのみで見られたことであった。彼らは中立国にいたことで、比較的客観的な情報に接することが出来た。また枢軸の拠点ベルリンから追い出される様に、リベラルな邦
人がスイスに複数移り住んだことも、理由としてあげることが出来よう。
残念ながら欧州の小国からの訴えは本国においてほとんど省みられなかったが、その行動の多くは賞賛に値するものであった。