[第61回]
▽日時:2008年3月15日(土)14時〜18時
▽場所:日本女子大学「百年館」3階 302会議室
ビュフォンの『博物誌』が大成功を収めた西欧18世紀は,「博物学の世紀」とも呼ばれる。実際,サロンやカフェでは人間の感覚の仕組みや動植物の分類といった話題に花が咲き,作家や思想家の間でも,例えばフランスではディドロが知識の総目録としての『百科全書』を編集し,スイス(以下,今日のスイス連邦に含まれる地域を「スイス」とする)ではショイツェルがアルプスに関する博物学的な調査を行い,人々に大きなインパクトを与えた。時代を代表する人物であるドイツ語圏のハラー,フランス語圏のルソーも例外ではない。ハラーは解剖学を専門とする医師であり,当然自然科学へは深い関心を寄せていたが,詩集『アルプスの山々』の出版により,ショイツェルによって布石を打たれた高山への憧憬を決定的なものとした。また,『社会契約論』などで知られるルソーは,スイス亡命時代から植物学に熱中し,『植物学辞典』といった専門的作品や,300点を超える自作の植物標本などを残している。
本報告は,この二人の特に植物学への関心に注目することにより,「博物学の世紀」のスイスという,まだまだ開拓余地のある研究領域の一側面を提示するものである。全体は以下の5部より構成される。
第1部:ハラーの生涯と功績
本年が生誕300年であるベルン出身のハラーは,医学,植物学,科学書誌学,及び文学の分野で活躍し,後世に大きな影響を与えた人物である。
ライデンやパリ,ロンドン,バーゼルなどヨーロッパ各地で学んだ後,ゲッティンゲン大学に教授として着任し,その後1753年からはベルンで医師,及び政治家として活躍した。特に解剖学の発展に大きな貢献をしたことが知られているが,植物学の分野では,スイス植物相の初の網羅的記述である『スイス植物誌』(1742,改訂版1768)を記し,科学史にその名を残している。
第2部:ルソーの生涯と功績
2012年が生誕300年となるジュネーヴ生まれのルソーは,15歳で故郷を飛び出した後,フランスにおいて『新エロイーズ』や『エミール』といった作品を発表し,文学,政治哲学,教育,音楽,植物学など幅広い領域でその才能を発揮した,「啓蒙の世紀」を代表する人物である。
著作の一部がフランスで禁書となるとスイスやイギリスで亡命生活を送るが,1770年にパリに戻ると『告白』や『孤独な散歩者の夢想』などの自伝的作品を完成させ,その傍らで植物学の研究に没頭した。特に,英訳も作られた『植物学に関する手紙』の入門書としての役割は高く評価されている。
第3部:ハラーとルソーの接点
二人に直接の面識はなく,書簡も交わされたことはないが,幾つかの間接的接点を挙げることができる。
まず,ハラーは『アルプスの山々』(1729),ルソーは『新エロイーズ』(1761)において山岳風景を謳いあげ,それまで恐怖の対象であった「山」を愛するという新たな感性の発達に大きな影響を与えている。双方とも単なる風景描写ではなく,道徳的,教訓的な側面が強いことから影響関係も推測されているが,お互いの作品を知ったのは執筆後のことであった。
次に,ハラーはルソーの『学問芸術論』などに書評を残しているが,彼はルソーの宗教観や政治思想を受け入れることができず,激しい攻撃を行うことが常であった。こうした敵意は,『エミール』の禁書化や,サン=ピエール島からの退去命令の発動にハラーが関与したのではないかという疑念をルソーに植え付けたようである。
なお,ハラーは1764年にローザンヌ・イヴェルドン間のグモワンという村の領主権を取得しているが,興味深いことに,この年ルソーはこの村を訪れ数日を過ごしている。詳しい滞在理由は不明であるが,ハラーに面会を求めた可能性も十分に考えられる。
第4部:ルソー植物学に関する新学説
ルソーはその後半生に植物学へ多大な関心を寄せ,モンペリエのグーアンや「植物学の父」リンネと書簡を交わすほど,その専門知識を深めた。しかし,研究者たちは現代植物学との比較に固執してルソー植物学の評価を貶めたり,『告白』など特定の文学作品上の記述に分析を集中させ,植物学の癒しとしての側面のみに注目したりすることが常であった。従って,この分野の研究は殆ど未開拓と言ってよい状態に留まっているのだが,半数以上が未刊行である草稿類を調査し,それらを18世紀という時代背景の中に置き直してみると,全く新たな「植物学者ルソー」像が浮かび上がってくる。その中でも,研究史を塗り替える可能性を秘めた三つの事項を紹介しておく。
1) 『植物学辞典』の大部分の記述は,実はリンネやトゥルヌフォールなどの専門書から転写されたものである。この事実は,プレイヤード版『ルソー全集』が定着させた厳しい評価や,執筆年代に関する通説を完全に覆すものである。
2) 植物学を学ぶ過程で,ルソーは『百科全書』を頻繁に参照していた。つまり,これまで多くの分析が行なわれ,18世紀西欧研究の中心テーマのひとつであったルソーと『百科全書』との関係に,今後は「植物学」という新たな地平が加わることになるのである。
3) ルソーは,パリ王立植物園に植物の種を寄贈していた。実際,A.-L.ジュシューの標本帳の中には,ルソーによってもたらされた植物を確認することができる。ルソーは,ヨーロッパ規模の科学者ネットワークの中で少なからぬ役割を果たしていたのである。
以上のような新事実の詳細,及び他の事項については,http://www.rousseau-chronologie.com/auteur.htmlから入手可能な拙稿を参照されたい。
第5部:ハラーとルソーの植物学上の接点
言及されることは極めて稀だが,植物学の分野において,ハラーとルソーには幾つかの接点が存在している。
まず,ルソーに植物学を教示したディヴェルノワとガニュバンは,両人ともハラーの協力者であった。具体的には,例えば1739年,『スイス植物誌』の執筆準備のためハラーはスイス西部の景勝地クル・デュ・ヴァンを訪れているが,その案内役を務めたのはこの二人の医師であった。その後,ディヴェルノワは65年1月に亡くなるが,同年7月,ガニュバンはルソーと同地で採集を行っている。結果,そこを訪れた科学者が名前を残す習慣のあるロシュ・オ・ノンという岩場には,ハラーと共にルソーの名を認めることができる。この天然の石碑は,18世紀スイスを代表する二人の意外な接点を具現化しているモニュメントなのである。
また,ルソーの植物学用のノートには,『スイス植物誌改訂版』の記述のいくつかが書き写されている。さらに,ルソーが1778年に亡くなった際,彼の書斎からはその初版が発見されている。これらの事実は,ルソーのハラー植物学への高い関心を表していると言えよう。なお,ルソーは改訂版に相当数の書き込みを残しているが,その大部分は,ハラーが提唱する植物名に対応するリンネ体系の種名である。使いやすいよう,一般的なリンネによる名称を書き加えたと推測されるが,一方で,この書き込みはハラー植物学の否定とも読むことができる。事実,ルソーは完全なリンネ派であった。ベルンで著作が禁書とされ,サン=ピエール島を追われたことが遺恨となり,ハラー植物学の集大成である書物をそのライヴァルの種名で埋め尽くすことにより,ささやかな復讐を果たしたという解釈も不可能ではないのである。その真相を明らかにするためにも,今後この分野の研究にさらなる発展がもたらされることを期待したい。