[第65回]
▽日時:2009年7月18日(土)14時〜17時
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館803会議室)
本報告は発表者の修士論文「1500年前後におけるスイス盟約者団代表者会議の政策決定構造」の作成にあたっての準備報告である。修士論文の趣旨は、帝国議会、等族会議など同時代の様々な会議と比較されるものの、未だ評価の定まらないスイス盟約者団代表者会議Tagsatzungについて、帝国国制の変わり目であり、またスイスが実質的に帝国から独立したとされる1500年前後を対象に、政策決定過程を分析することで、その構造の実態の解明を目指すことにある。
1. 研究史
Tagsatzungは一般的に、諸邦、都市邦、農村邦含め、盟約者団に加盟する各邦から全権委任をうけた、邦を代表する使節の集まる会議と理解されているが、その研究が始まるのは20世紀半ばになってからである。Tagsatzungの議事録集Amtliche Sammlung der alteren Eidgenossische Abschiedeの編纂作業は19世紀始め、1818年から、スイス当局の主導で行われ、20世紀初頭の研究者W. エクスリは、Tagsatsungを16〜18世紀の宗派化による分裂と国家的硬直性のシンボルと捉えている。20世紀半ば以降はエクスリの研究には修正が施され、従来のTagsatzung像に対して、Tagsatsungを盟約者団総体の意思決定の場として捉える新たな見方が出てくることとなる。
この段階でTagsatzungはスイス歴史学においてのみ対象とされる存在であったが、F.H.シューバートや、P. モーラフによって取り上げられたことで、ドイツ歴史学会でも歴史研究の対象として認識されるようになる。シューバートは、Tagsatsungと神聖ローマ帝国の等族会議との類似性を指摘し、またモーラフは、中世の帝国議会・宮廷会議の研究が後世のイメージを反映させた不十分な史料に依拠して行われていることに懸念を示しているが、この状況がTagsatzungにおいても当てはまるというのが近年の研究の見方である。
Tagsatzungと等族会議を類似のものとして扱うシューバートの見方には批判もあり、80年代後半にはN. ビュティコファーが両者の差異、つまり盟約者団は「皇帝と帝国」、「諸侯と等族」、「ヘルシャフトとラントシャフト」といった帝国の諸集会が免れ得ない二元論から自由であり、1499年には帝国から事実上政治的に独立していたことを指摘し、その意味をより強く認識すべきだと主張している。また、ビュティコファーはモーラフらの懸念を踏まえ、Tagsatzungの実証的な検討を目的に、Tagsatzungで協議された案件のリストを表の形で提示している。こういった形での数量的な研究はほとんどなく、この研究は以後の諸研究にも大きな影響を与えている。
以上の流れを受け2000年に入ると、A. ヴュルグラーがTagsatzungを盟約者団の代表機関であると位置づけ、Tagsatzungがこれまでスイス国外の研究ではほとんど扱われず、政治的代表機関に関する国際的な比較史の枠組みの中に組み入れられることもほとんどなかったことを問題視する。ヴュルグラーはこの問題を解決するために、Tagsatzungの機構、Tagsatzungに派遣された外交使節の社会的プロフィール、邦代表である外交使節と邦の関係の三点に焦点をあて、Tagsatzungの具体像を描き出している。
制度史、社会史、国制史的側面からアプローチしたビュティコファーやヴュルグラーに対し、近年流行のコミュニケーション史の側面からTagsatzungへのアプローチを試みたのがM. ユッカーである。外交使節を、慣行・振る舞いの面から分析し、また都市の書記が果たした役割にも着目した点に、ユッカーの独自性があるといえよう。
スイス歴史学では等族議会ではなく、使節による協議のための会議という認識がされているTagsatzungだが、国際的な研究の視座には未だ入ってはおらず、比較研究の対象になっていると言える状況ではない。90年代以降、中近世のTagsatzungに関して多くの研究成果があげられているにも関わらず、いまだ定まった評価があるといえる状況にはない。これは、全会議に共通する運営規則、印章、中央文書館、雇用人、金庫がなかったことから全体像が描きにくいこと、また全体像を描くために必要な個々の事例研究が不足していることに原因があるように思われる。ここに発表者が修士論文でTagsatzungを扱う意義がある。
2. 問題関心・研究手法
会議の個別事例研究の少なさを補うため、ビュティコファーが1986年の論文で採っていたような、中期間のTagsatzungを取り上げ、それらを具体的考察することにする。またTagsatzungの統計的資料はR. ヨースが1925年の学位論文で、1481年・1490年・1520年のTagsatzungの案件数の平均を出した以外は、ビュティコファーのものだけになる。発表者は、ビュティコファーが扱った1501年から1505年を一応の安定期間であると判断し、Tagsatzungが実際どのようなものであったか考察する上で、修士論文において紛争の起こっている混乱期の事例という新たな指標を加えることでより実態に近づけるのではないかと考えた。発表者は、シュヴァーベン戦争があり、スイスが神聖ローマ帝国から事実上独立したとされる1499年を混乱期と設定する。1499年に開催された43件のTagsatzungを検討、加えて都市年代記の記述も併せて確認することで、モーラフやビュティコファーの指摘するAbschiede編纂の恣意性から一定の解放が得られると考えている。
この修士論文によって、Tagsatzungの意思決定の過程・仕組みがより明確なものになり、外交活動=個々の都市間のものという一般理解に対して、集団的合意形成の場としてのTagsatzungを示すことで、P. ブリックレ以降、共同体論との関わりの中で語られているように、緩い連合体である盟約者団が、一つの都市、一つの邦などの単位を越えた、より大きな枠組みで動こうとする共同体の嚆矢であることも言えるのではないだろうか。
そしてこれに伴って、ともするとナショナリズムに左右されがちなドイツ・スイス両歴史学に一定の修正を迫ることが出来ると発表者は考えている。また、その複雑さから検討されることの少ない1499年を対象時期とすることにも、地域史・郷土史的な枠組みに留まりがちなスイス史を、当時のヨーロッパ諸国の勢力争いの中に位置付けし直す、という意義があると思われる。
3. 検討史料
@Tagsatzung議事録…1499年の43件の会議を検討
Die Eidgenossischen Abschiede aus dem Zeitraume von 1478 bis 1499.
A年代記…@の補足情報収集、または確認
Die Schweizer Bilderchronik des Luzerners Diebold Schilling, 1513.
B文書集Aktenstucke…@の補足情報収集、または確認
Aktenstucke zur Geschichte des Schwabenkreieges nebst einer Freiburger Chronik uber die Ereignisse von 1499.
以下、CDは扱うとしたら傍証として
C同時代のニュルンベルクの市参事会員Willibald Pirckheimerによるシュヴァーベン戦争に関する著作
DRegesta imperii