[第66回]

「ヨーロッパの多言語状況について―とくにルクセンブルクを中心に」

報告者 小川敦


▽日時:2009年10月10日(土)14時〜
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(3号館第1会議室)


1. はじめに

本報告で扱うルクセンブルクはゲルマン語圏に属しているが、1839年に近代国家が成立して以来、ドイツ語から徐々に独立してきた母語・ルクセンブルク語とともに、ドイツ語、フランス語の三言語が日常的に使用されてきた。これらの使用領域は棲み分けがなされており、例えば主にフランス語・ドイツ語は書き言葉として、ルクセンブルク語はルクセンブルク語話者の間で話し言葉として用いられている。
ルクセンブルク人は、独仏語を使いこなすことで両文化圏の架け橋となることを自他共に認識しながら、同時にルクセンブルク語という独自の言語を発展させてきた。この言語意識は、近代国家が誕生して以来、どのような言説で現れるのであろうか。また、近年の欧州統合やそれにともなう外国人労働者の急増によって、言語意識はどのように変化しているのであろうか。

2. 国語としてのルクセンブルク語と多言語主義

ルクセンブルク語は元来ドイツ語の一方言と位置づけられてきたが、国民意識の醸成とともに国民の象徴として認知されるようになり、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる支配を経て一つの言語として意識されるようになった。ある言語の一変種を別の言語にすることは、その言語に社会的な地位及び標準語、特に統一された書き言葉を与えることと一般的には考えられている。ルクセンブルク語の場合、標準語化は発展途上ではあるが、この流れの中にあると考えられる。また、こうした動きは他の諸国にも見られるような一国家=一言語の単一言語イデオロギーととらえることができる。
しかし、ルクセンブルク語よりも独仏語教育に重点が置かれていることを考えると、歴史的に政府は多言語主義的な政策を採ってきたことがわかる。こうした政府の態度のほかに、今日の欧州統合・ボーダーレス社会の進展もあって、ルクセンブルクにおける言語意識には、ルクセンブルク語への強い母語意識という単一言語性と、外国語能力の重視という多言語性という2つの方向性が一貫して見られる。

3. ルクセンブルク人に見られる2つの言語意識(3つの時代から)

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ルクセンブルクでは自らの母語はドイツのドイツ語とは異なった「我々のドイツ語」という意識が育つ。代表的な意見として、20世紀初頭にナショナリズム団体を率いたL.ケーニヒの主張が挙げられる。彼はルクセンブルク語を話すルクセンブルク人か、話さない非ルクセンブルク人だけが存在すべきあり、社会階層や思想による垣根は取り払うべきであると主張し、国民と言語を結びつけようとした。一方、知識人を中心に、独仏語を駆使することでドイツにもフランスにも属さない独自性という主張が現れた。例として、独仏語を習得し、両文化の恩恵を受けることがルクセンブルク人の二元性(dualisme)であるとしたN.リースが挙げられる。
次に言語意識が変化したのは、ナチス・ドイツの占領を通じてナショナリズムの高揚が見られ、ルクセンブルク語の地位が大幅に上昇した第二次大戦後である。1948年、ルクセンブルク語辞典委員会によってドイツ語の習得を前提とした正書法が誕生した。これは皮肉にもドイツ語が国民にとって必要であることを示すものとなった。言語学者であり委員のR.ブルッフは、ルクセンブルク人がパリ盆地から移動してきたゲルマン人であり、ルクセンブルク語には他のドイツ語方言にはないフランス語の要素が埋め込まれていると主張した。これはルクセンブルク人という民族を神話化し、ルクセンブルク人の二元性(dualisme)を認めるものであった。この思想は上記のリースのものとは異なり、単一言語性と多言語性の双方の言語意識を強固な国民意識のもとに結合させようとするものであった。
続いての変革期は1970年代から80年代で、この時期は外国人の増加を背景に1971年に言語擁護団体Actioun Letzebuergesch(AL)が設立され、1984年にはルクセンブルク語が唯一の国語(langue nationale)としてだけでなく、独仏語と並ぶ事実上の公用語として認められた言語法が設立された時代であった。ALの設立者L.ロートは、多言語主義を厳しく批判し、ルクセンブルク語があらゆる場面で、特に書き言葉として用いられるべきであると主張した。一方、言語学者F.ホフマンはルクセンブルク語が公用語となることで独仏語能力にも悪影響を与えることを危惧し、繁栄をもたらす独自の二重文化(Doppelkultur)を終焉に導くと警告した。
このように、両方向の言語意識によってアイデンティティを守りながらも外に対して開かれた「模範的なヨーロッパ人」像の表象が形成されてきた。その中で徐々にルクセンブルク語は使用範囲を広げてきたといえる。

4. 近年の外国人増加と言語問題

今日、人口の40%が外国人であり、労働力の40%が越境通勤者であるという状況の中で、ドイツ語を媒介言語としながら、フランス語を習得させるというこれまでの教育が曲がり角を迎えている。また、ルクセンブルク語による外国人の社会統合が大きなテーマとなっており、母語意識の高まりとともにルクセンブルク語教育市場の増大によってルクセンブルク語の整備や研究が進められている。
2002年のユンカー首相による「ルクセンブルク語が社会統合の重要な役割を担う」という声明や、2008年の二重国籍付与の条件にルクセンブルク語テストを課すことを決定したことからも読み取れるように、一言語=一国家の考えによる単一言語性への動きが強まりつつあるように見える。独仏語の多言語教育という伝統的な教育は現在でも維持されているが、これはルクセンブルク語による社会統合を推進することを前提にしたものであろう。教育の媒介言語をこれまでのドイツ語からルクセンブルク語に変更する、もしくは希望者にはフランス語による教育を行うべきであるという声もあるが、前者はドイツ語の周辺化を招き、後者は社会の分裂を招くものであるという意見が多数となっていることからもその心理が垣間見える。

5. 最後に

ルクセンブルクにおける言語意識には、常に二元的な意識が見られる。今日、欧州統合やグローバリゼーションが進展し、ルクセンブルクは経済的にその恩恵を享受しているが、その開放性ゆえに国民国家としての意義が問われ始めている。そうした中で、この特徴的な言語意識がどのように変化していくのか、注目しなければならないだろう。