[第67回]
▽日時:2009年12月12日(土)14時〜
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(3号館第1会議室)
本報告の狙いは、長年、関心を抱いてきた「1291年同盟文書」を解釈するのに、15世紀後半以降、幅広く流布した「解放伝説」から何らかのヒントが得られないか、という課題である。一見、無謀な試みと受け取られかねないが、最新のスイス歴史学を見ると、一方で、14世紀前後の「スイス建国時代」から15世紀までの地域社会史・国制史的研究(Roger Sablonier、Bernhard Stettler)が公刊され、他方で、伝説・伝承への心性史的研究(Guy P. Marchal)の中で、ヴィルヘルム・テルを含む解放伝説も取り上げられているので、こうした研究傾向を念頭におきながら、文書と伝説の擦り合わせを試みてみた。
1291年同盟文書については、近年、ますます、スイス建国文書という、かつての共通理解から遠のき、この文書を1300年頃の中スイス地域史に位置づけ、シュヴィーツの同盟文書博物館に展示されている原本は1309年に作成された、というSablonierの斬新な見解が話題を呼んでいる。放射性炭素年代測定法(C14)による、この文書年代の推定には異論がないわけではないが、専ら14世紀前後の中スイス地域に焦点を絞り、政治、経済、社会と文化の側面から、しかも当時のスイス内外を結ぶ交易関係も積極的に取り込みながら、文字通り総合的に論じており、1291年同盟文書を考えるのにとても有益である。とりわけ国制史的な視点を前面に出していること、渓谷土着の指導層と彼らの利害も俎上に載せているのは注目に値する。この2つの視点を見据えると、1291年同盟文書の文面からは即座には読み取れない重要な論点が明らかになる。即ち、同盟を盟約した3つの渓谷の国制史的位置と、同盟を実際に推進した渓谷の指導層の存在である。
この2つの論点について、別な面から重要なヒントを与えてくれるのが、解放伝説に他ならない。リュトリの誓い、テルのリンゴ射撃、城郭襲撃を柱とする解放伝説は、『ザルネン白書』(1474年)から徐々に知られるようになり、16世紀以降、テル劇や木版画、或いはテル礼拝堂の創建を通して、人々の心を広く捉えた。その後、16世紀中頃のチューディや18世紀後半のミュラーを経て、「自由のシンボル」として、そして、何よりもスイスの建国伝説として、スイス国民意識を一段と喚起するきっかけとなったのが、シラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』(1804年)である。この2つの作品を照合すると、スイス人が好む解放伝説の原型は、早くても15世紀前半のものだが、しかし、その素材は、明らかに四森林州湖畔を舞台に、限りなく14世紀前後の史実に近似しているのが少なくない。そのために、1291年同盟文書とその背景を探るのに予想外に役立つ。まず、渓谷が帝国直属性にあったこと、それ故、「自由の勅書」(皇帝特許状)を既に取得していたことが、一度ならずセリフの中に出てくる。中スイスの渓谷は、皇帝・国王の下に服し、帝国国制の組織として認可されていた。また、渓谷の人々も、度々、皇帝・国王特許状を引き合いに出し、これを足掛かりに、ハープスブルク家の「代官」支配を跳ねのけようと企む。1291年同盟文書第4条、外部の裁判官を認めない「裁判官条項」は、まさにこうした渓谷の国制的地位を如実に裏付ける条項に他ならない。
更に、解放伝説の主役、3つの渓谷の代表者が中心となって、リュトリの誓いのおぜん立てをし、城郭襲撃の烽火を上げる。この主役こそ、ほかでもない、当時の渓谷の指導層なのであり、なぜか1291年同盟文書に人名は全く出てこないが、多分、同盟盟約を実際に推進した当事者ではなかったか、という推測を呼ぶ。テルの実在はおくとしても、伝説に実名で出てくる主役のほとんどは、同じ1291年10月、チューリヒと結ばれた同盟の当事者とも一致するし、また、同時代の他の文書からも確認されている。彼らは、土着の自由紳、荘司階層或いは裕福な自由農民層であり、1291年同盟文書第3条にある荘園領主権の留保条項は、まさに彼ら渓谷の指導層の利害を保全したものである。
1291年同盟文書の文面を辿るだけでは、すぐには見えてこない渓谷の国制的地位とか、渓谷の指導層の姿が、解放伝説から読み取れる。まさに文書の読解を伝説で補強する、ということである。ここから、1291年永久同盟の意義が改めて確認される。即ち、13世紀、中スイスの渓谷は、既に皇帝・国王の下に服し、帝国国制上の組織として公認されていた。この帝国国制上の枠組みを前提にして、3つの渓谷のラント平和を維持するために、永久同盟が盟約された。そして、その際、同盟盟約を自ら推進したのは、渓谷土着の指導層であり、彼らの利害を保全することも、同盟の狙いであった。彼らは、渓谷の代表であるラントアマンとして、また、帝国フォークトと共に、或いは帝国フォークトに代わって、渓谷及び同盟内で、帝国国制上の任務を担う十分な資質を備えていた。伝説上の「悪代官」ゲスラーのような帝国フォークトの不法行為に対しては、断固として立ち向かい、帝国フォークトの城郭を襲う勢いであった。これが、先の裁判官条項の趣旨であり、伝説に描かれた城郭襲撃なのである。
Sablonierは、現存する「1291年同盟文書」が、通説の1291年ではなく、1309年に作成された、という結論を引き出した。ハープスブルク家の国王アルブレヒト1世の暗殺後、反ハープスブルク派のハインリヒ7世が神聖ローマ国王に即位したが、その翌年、1309年、3つの渓谷に、それぞれ帝国直属性を認めた国王特許状を発給するとともに、3つの渓谷全体に向けて、帝国フォークトとして、国王派のホムベルク伯を任命した。これは、3つの渓谷が、1つの帝国フォークタイとして帝国法上公認されたことを意味する。「1291年同盟文書」として現存する文面は、まさにこの状況を先取りして盟約された同盟の中身であり、ここには、新しい帝国フォークトに対する3つの渓谷の共通の姿勢が読み取れるし、同時に、その際、渓谷の指導層は、渓谷と同盟内において自己の地位をしっかりと保全するのも忘れなかった。彼らは、1291年7月、ハープスブルク家の国王ルードルフ1世の死後の帝国内の状況と同じ不安定な時代を見込んで、ラント平和の擁護を掲げた。そして、この状況に応じて、古い年月日のまま、作成し、公布したのが、シュヴィーツに現存する「1291年同盟文書」である、という。文書がいかに受け継がれ、状況に応じて書き込まれたり、削除されたりしたか、という「史料の生命」はとても興味深いが、残念ながら、論評する材料はない。ただ、永久同盟を帝国国制上に位置づけているのと、渓谷の指導層に着目しているSablonier の論点は、当初から主張してきた報告者としては、解放伝説からの補強も手伝って、とても心強い。
今後の課題としては、本報告で少し紹介したように、いわば「伝説の生命」として、解放伝説を各時代の中に位置づけ、人々が抱いた解放伝説のイメージ、或いは時代ごとの受け止め方を丁寧に掘り起こすことである。例えば、16世紀以来、3つのテル礼拝堂の建立から改築或いは改修を経て、様々な階層に幅広く親しまれてきた。また、文豪ゲーテは、異常なほど中スイスの知識に精通し、2回(1775年、1797年)もテルに因んだ史跡を自分の足で辿っている。なぜ、これほどまでにゲーテを引き付けたのであろうか。各時代に広く親しまれ、愛好された解放伝説の受け止め方を辿ることによって、人々の「集合的記憶」を読み取るのも、興味が尽きないテーマとなる。