[第69回]

「東京帝国大学法科大学スイス人教師ルイ・アドルフ・ブリデルの活動と業績」

報告者 小沢奈々


▽日時:2010年7月3日(土)14時〜
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館804会議室)



19世紀末に活躍したスイスの高名な法律家の一人にして、明治33(1900)年に招聘され来日し、長きにわたり東京帝国大学を中心に、明治後期のわが国の法学教育に多大な貢献をした、ルイ・アドルフ・ブリデル(Louis Adolphe Bridel 1952-1913)について報告を行なった。冒頭で、ブリデルに関する研究は「近代日本とスイスの法学交流」「日本民法の展開」「明治後期お雇い外国人の歴史的意義」を考えるにあたり非常に有益なものであるという点を指摘し、それらを踏まえた上で、ブリデルの「来日までの経歴」「来日の経緯」「日本での活動」について紹介した。その際には、東京帝国大学やスイス連邦公文書館(Schweizerisches Bundesarchiv)に所蔵されている史料−例えば「東京大学傭外国人教師関係書類・講師履歴書」からはブリデル自筆による履歴書や傭入契約の契約書等、そして“Correspondance d’Eugen Huber avec la suisse romande”からはブリデルがスイス民法典起草者オイゲン・フーバーに宛てた書簡の中から、日本から送ったとされる15通について−を補完的に用いながら、ブリデルの多面的な活動の輪郭を示した。

スイスではジュネーヴ大学法科大学教授、同法科大学学長、スイス民法第一草案起草委員、ジュネーブ州議会議員等、幅広く活躍を行なってきたブリデルが、極東の地で教授する道を決意した理由についてはいまだ明らかにされていない。本報告においては、ブリデルは日本人学生らとのコンタクトによって来日前から日本事情に精通しており、そのことによって、後進国日本に多大の関心を寄せ、抱負と希望をいだいていた可能性が高かった点、またブリデルはスイス民法典編纂で第一草案委員となったものの、その後、婚姻法学者アルフレッド・マルタン(Alfred Martin)が編纂委員となることで、思うような活躍をすることがもはやかなわなくなった点を指摘するにとどめた。一方、東京帝国大学側のブリデル招聘の理由については「比較相続法のオーソリティーを必要としていた」「かつて法学の中心であったフランス法を再び興隆させたい」「日本の法学者はヨーロッパ最新の、そして日本民法典の編纂とほぼ同時代に行なわれているスイス民法の立法作業に大きな関心を抱いていた」という背景があったことがわかっている。こうした中、東京帝国大学と3年間の契約で来日したブリデルであったが、彼はその後も契約を2回更新し、大正2(1913)年に急死するまでの13年間、我が国で積極的な活動を行なった。

ブリデルの日本での活動として、主に東京帝国大学での教育活動、その他の教育機関での活動、著述活動、スイス民法典冊子の配布活動を挙げることができる。本報告ではまず、彼の仕事の中心であった法学講義の具体的内容を取り上げた。そこから、講義の内容面において、初期においては比較法的観点からの法学教育が大半を占めていたが、その後、20世紀最新の民法典である、スイス民法典の紹介が講義の中心に置かれるようになり、その比重は次第に増していったという事実を指摘した。次に、ブリデルが同民法典を世に知らしめようと様々な活動を行なったなかで、最も精力的に行なったスイス民法典の冊子の提供について考察をした。その際、彼の日本の滞在目的についてもあわせて検討した。提供者の中には、梅謙次郎や富井政章といった我が国の民法典起草者がいる点、また、ブリデルと専門を同じくし、またスイス民法に関する業績を多く輩出している、穂積重遠に冊子を提供している点、さらに、ブリデルはアジアにも目を向け、清国の使節や、孫文にもスイス民法典を配布した点に注目した。そしてここから、ブリデルが、日本で施行されたばかりの新民法典の、後に行なわれるであろう法改正の際に、スイス民法典の理念を普及させることを視野に入れていたこと、日本法学界の次世代を担うであろう人物にスイス民法典を託すことにより、法学界におけるスイス民法典の存在を高めたいという彼の理想の追求を促そうとしていたということ、さらには法学領域における「植民地化」を、近代法典の立法作業を開始しようとしていた中国に対して行ない、その媒体としてスイス民法典を使用したことを理解した。

以上の考察から、本報告の終りには、スイス民法典を認知させようとの彼の使命感が、スイス国内でも重要なポストにつくような経歴を持つブリデルに、13年もの長きにわたり日本に滞在させる動機を形成したことを明らかにした。ブリデルにとって、スイスの繁栄は彼の願望であり、彼の信じた自らの使命とは、祖国の法律であるスイス民法典を極東の地に伝播したい、いわば宣教のようなものであった。そしてその考えは徐々に彼の中で加熱していき、ついには彼はそれを果たすことでスイスを列強国の一員として肩を並べられるようになるべく、自らの専門分野で大きな努力をはらったのであった。しかし彼のそのような意図には限界があり、時代がそれを叶えることはなかった。スイス民法典を、ドイツ民法典やフランス民法典と並ぶ、第三の大陸法の一つとして、日本にその存在を主張するという、彼の目論見は果たされることはなかった。しかし、彼が教授した比較法学や家族法学は、彼の教え子たちによって継承されていくことになる。こうした事実からブリデルの滞在を見ていけば、彼の日本の法学界における貢献は彼の本来の意図とは若干異なるが、決して見逃すことの出来ないものであったといえよう。