[第70回]
▽日時:2010年9月18日(土)14時〜
▽場所:明治大学駿河台校舎研究棟4階第三会議室
スイス盟約者団は、代表者会議(Tagsatzung)と呼ばれる都市邦・農村邦の双方が各々代表使節を派遣する会議において、協議してその政策を決定していたと言われている。都市・農村の双方が参加していることから、近世の共和制議会の先駆けとも目され、また帝国議会などの等族会議と比較されることも多い。しかし、協議される案件内容、会議の開催地、派遣使節の構成などが個々の会議に関して細かく分析されることは少なく、このような個別事例研究の不足が代表者会議の全体像の把握を妨げ、上述の議論においても回答を保留する一因となっている。本報告の狙いは、以上の問題を念頭に置きつつ、不足している個別事例研究を少しでも補い、また先行研究と併せることで代表者会議の全体像をより明確に提示することにある。先行研究では、特にN・ビュティコファー(N. Butikofer)が主に1501-1505年という比較的紛争の少ない時期に関して数量的分析を試みているので、本報告では1499年というスイス盟約者団が神聖ローマ帝国から事実上独立する契機となったとされるシュヴァーベン戦争の起きた一年間を対象とした。
代表者会議における案件内容は、ビュティコファーの指標に従って6つに区分される。「共同支配地に関する案件」、「請求/嘆願書に関する案件」、「紛争に関する案件」、「対外問題に関する案件」、「同盟・教会・身代金・経済/商業・傭兵派遣/契約に関する案件」、「会議・使節の編成、その他に関する案件」の6つである。代表者会議はその起源が、大規模な軍事活動の際の仲裁を定めた1351年のチューリヒ同盟にあるとされ、また1415年にハプスブルクから最初の共同支配地であるアールガウを獲得したことで、年会計のため定期的に開催されるようになり会議数が大幅に増加した。そのため、共同支配地と仲裁活動に関するものがその本来的な役割とされている。1499年においてもその傾向は見てとることができるが、両者の様子は対照的である。例えば共同支配地に関する案件は、全684案件中176件、全体の26%を占め、1499年においても中心的議題であることが確認される。この際、共同支配地の通常の運営に加え、コンスタンツ司教と盟約者団、ミラノ大公、ドイツ王が争った共同支配地トゥールガウのラント裁判権に関する問題に最も比重が置かれているのが1499年の特徴である。対して、仲裁活動に関係するものは紛争に関する280案件のうち、対外紛争に関する案件253件以外の27件である。諸邦間の紛争、邦の構成員間の紛争、一邦内での紛争がこれにあたり、割合としては多くはなく、紛争に関する案件において1499年の重心は既に対外活動に移っていることが明らかであろう。
これら2つの案件区分に加え、請求/嘆願書に関する案件も113件、全体の17%と先行研究と比べても高い割合を示している。ここで着目すべき点は、外部の勢力で盟約者団に請求/嘆願をしているものは全て比較的良好な外交関係にあり、敵対勢力は和平が締結されるまで会議に参加することができなかったことである。代表者会議は1499年においてあくまでも盟約者団内部のための会議であった。1499年の代表者会議は、また、共同支配地、嘆願、紛争に関する3案件を中心に議題が構成され、各々の会議はこのいずれかに重点が置かれている。紛争案件が中心の会議が数回開催された後、嘆願案件が中心の会議が開催されるなど、1499年の嘆願案件は主に紛争における諸問題を解決するためのものであった。
代表者会議には正式加盟邦は原則参加するものとされている。しかし、1499年において加盟邦の参加が限定的な会議も確認された。これは2つに分類でき、一方は開催地が従属邦、共同支配地、外部の都市、もしくは不明であるもので、もう一方は正式邦であるものである。前者は中心議題が、7邦の共同支配地、もしくは保護支配邦であることから、正式邦でも直接の権利を持たないものが欠席しており、議決に特に非難の文言がないことから欠席しても問題はなかったと考えられる。対して後者は、ウーリとグラールスがシュヴァーベン戦争の和平の批准に対する反対の意を表するため欠席したものと考えられ、他邦から出席を促す使節が派遣されたり、和平の批准が盟約者団にとどまる条件であることが示唆されたりと盟約者団にとって非常事態であったことが確認された。
代表者会議の開催地はルツェルンが多くを占め、また年会計の会議がバーデン、後にトゥールガウで開催されることを除けば特に固定されていない。1499年においては開催地を、共同支配地、従属邦、外部の都市のグループと、正式邦との2種類に分けることで開催地の決定理由を考察した。前者では共同支配地の年会計、トゥールガウのラント裁判権問題、戦場における指示、和平交渉、ザンクト・ガレンのレーエン問題がその主要議題である会議が開催されるなど、案件に密着した地が選ばれていた。後者はチューリヒ12回、ルツェルン12回、ベルン、シュヴィーツ、ツークが各1回となっている。シュヴィーツに関して理由は不明だが、ベルンはフランスからの傭兵契約金20,000グルデンを分配するのに便利な地であり、チューリヒはシュヴァーベン戦争において主導的な役割を果たしていたことから開催地として多く採用されたのだと考えられる。
代表者会議における各邦の使者は通例、その共同体の構造と大きく関係している。例えば都市邦においては市長、また都市貴族支配型の都市では加えて都市貴族やミニステリアーレンの派遣が多く、農村邦ではその管理責任者であるアムマンの派遣が多い。1499年は以上の傾向を残しつつも、以下に述べる2つの興味深い点が確認された。一つ目は、都市邦チューリヒ、ベルン、ルツェルン、ゾーロトゥルンと農村邦グラールスにおいて、傭兵隊の指揮経験者や財務長官など軍事関係者の派遣が多くなっており、また、特に都市邦フリブールにおいては、高等教育を受け外部勢力との交渉を担当したと考えられる都市書記官の派遣が多くなっているなど、盟約者団の邦間において軍事/外交の役割分担が行われていたと考えられることである。ここに、盟約者団が外部に対し、一定の程度内部で一致して行動していた証拠を見てとれるのではないだろうか。二点目は、農村邦シュヴィーツ、ツークでフォークトの派遣が増えることである。これは代表者会議の中心議題の一つが共同支配地に関する案件であったことから、共同支配地の管理者であるフォークトが問題に最も適した存在として派遣されていたと考えることができよう。
以上のように、1499年では戦争案件が突出して多く、また軍事経験者の出席率が高いこと、軍事/外交の役割分担が各邦で行われていたことが安定期との違いであると言えよう。また都市・農村邦双方が出席しているとはいえ、使者の派遣数の違い、使者の記載方法でも都市では姓名と役職の双方が記載されることが多いのに対し、農村邦では姓だけや役職だけの記載が多いなど、単純に平等関係にあるとは言えず、なおも検討の余地がある。