[第71回]

「柳田国男のスイス」

報告者 岡村民夫


▽日時:2010年10月2日(土)14時〜
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館804会議室)



柳田国男(1875-1962)は、1921年(大正10)7月から1923年(大正12)8月、満45歳から49歳にかけて、途中帰国(1921年12月-1922年5月)をはさみながら、国際連盟委任統治委員会委員としてジュネーヴに赴任した。足かけ3年にも及ぶ、最初で最後の洋行が、人生と学問に影響しないとは考えがたい。にもかかわらず、柳田のスイス時代についての研究は非常に遅れている。そこで私は2009年度の在外研究先にジュネーヴを選び、スイス時代の柳田の生活や足跡を研究した。ここでは特に彼の住まいと、アルプス旅行について論じる。

郊外生活

柳田が住んだのは、彼の事務所があったジュネーヴのシャンペルという地区である。1921年7月から10月まで(1度目のジュネーヴ滞在全体)と、翌1922年6月(2度目のジュネーヴ滞在の当初)は、オテル・ボー=セジュールというグランド・ホテルに長期滞在した。7月、このホテルから「半町ほどの処」にあるヴィラへ転居し、9月、さらにアヴニュ・ド・ミルモンの田舎家風のヴィラへ転居した。そして1923年1月、オテル・ボー=セジュールへ戻った。

シャンペルは、ジュネーヴの南郊外の高台に広がる緑豊かで風光明媚な高級住宅地区であり、田園都市的な性格をもっていた。またジュネーヴ大学の後背に位置することから、学園都市の側面もあった。ジュネーヴ赴任は、柳田にとり初めてのモダンな郊外生活を意味した。

帰国から数年、1927年(昭和2)に柳田国男は、新宿区市谷から多摩郡砧村の田園(現・世田谷区成城)へ移住した。長男を通わせていた成城学園が近所から砧へ移転し、学園都市を計画したのに応じた行動であるが、柳田の心中には、ジュネーヴで体験した新たなライフスタイルを日本へ移植しようという意図があったのではないだろうか。

柳田がみずから設計した新居は、ハーフ・ティンバーの洋風二階建て木造建築、つまり一種のヴィラだった。その庭はオテル・ボー=セジュールの庭と同様、明るい芝生の庭で、オテル・ボー=セジュールでそうしていたように、彼はこの庭に籐椅子を出し、くつろぎ、訪問者と歓談した(大藤時彦・柳田為正編『柳田國男写真集』)。

「野鳥雑記」(1928)で柳田は「郊外の家」へ移り住んではじめて野鳥や野草の深い観察ができるようになったと述懐しているが、そのはじまりは、東京の郊外ではなく、ジュネーヴの郊外に遡るのだ。柳田の「瑞西日記」を読むと、彼が盛んにシャンペルやその周辺の田園を散歩し、野鳥を観察していたことがわかる。

ジュネーヴ郊外生活の影響は、柳田の個人生活の範囲にとどまらない。帰国後、彼は武蔵野の農村史について書いたり、新しい郊外生活や田園都市の可能性を説くようになった。

山の人生

柳田はシャンペルから間近に見えるサレーヴ山(フランス・オート=サヴォア県)へ毎年登山している。ほかにもモンブラン山麓へ足をのばしたり(1921年9月)、ベルニナ・アルプスやローヌ・アルプスを巡る長期旅行(1922年7月、8月)など、アルプスの各方面への旅行を企てた。こうしたアルプス行がこれまで軽視されてきたのは、通俗的な観光旅行と見なされてきたからだろうが、実際は民俗学的関心を中心とした一種の調査旅行ではなかったか。

旅先から出された手紙からは、柳田が生活や伝説に積極的な関心をもってアルプスの山村を眺めていたことや、アルプスに信州や岩手の山々を重ねあわせていたことがわかる。成城大学民俗学研究所に所蔵されている彼の蔵書中には、エステラ・カンツィアーニ&アルノルド・ヴァン・ジュネップ『サヴォアの衣装・風習および伝説』(1920)やアルフレッド・セレソル『ヴォー州アルプスの伝説』(1921年版)といったフランス語書籍が存在する。後者が語る山の旧家に住む妖精セルバンを、柳田は遠野の佐々木喜善に「スイスのザシキワラシ」と説明していた(佐々木宛1921年12月15日付け書簡)。

『遠野物語』(1910)以来、柳田は民話中の「山人」はヤマト民族以前に日本列島に広がっていた先住民族の末裔を表象しているのではないかと考え、その仮説を証明するために資料を収集していた。積年の研究は、帰国後ほどなく『山の人生』(1926)として公刊される。スイス時代の柳田は、アルプスの民俗を日本の山村の民俗を比較しながら、山人研究の構想を練っていたのだろう。