[第72回]

「近世におけるフッガー家とコミュニケーション ―アウクスブルクの改暦紛争をめぐって 」

報告者 栂香央里


▽日時:2011年1月22日(土)14時〜
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館804会議室)



ドイツにおける伝統的なフッガー研究において、いわゆる「フッガー家の時代」は、「富豪」ヤーコプ・フッガーとその後継者、アントーンの時代とともに終わったと言われてきた。19世紀末のエーレンベルクを先駆とし、その後のポェルニッツ、ケレンベンツなど経済史研究者による多くの著作が刊行された。しかし、研究発表当時の時代背景に合わせて、フッガー家の並外れた経済的上昇のみが関心の的となり、いずれもアントーン死後のフッガー家の歴史には無関心であった。

近年になり、フッガー研究は新たに社会史的、文化史的視点で行われるようになってきている。いわゆる「フッガー家の時代」、フッガー家の本拠地アウクスブルクは、コミュニケーションの中心地となっていた。フッガー家のような大商人は、自身の商業活動を達成するために、支店網を駆使して様々な情報をヨーロッパ中から収集していたのみならず、定期的に転送・発信していたことが窺える。「コミュニケーション革命」(W.Behringer)により最盛期を迎えたのは、アントーンの後の世代、ハンス・フッガーの時代である。社会的な変動期であった16世紀後半から三十年戦争勃発に至るまでの時期は、フッガー家にとっての転換期となった。16世紀後半は宗派闘争の渦中にあり、フッガー家は、アウクスブルクのイエズス会を援助するなど、都市のカトリックの宗派化に貢献するとともに、一族のカトリック信仰を確立した。フッガー家は、経済活動のみならず、アウクスブルク都市内においても重要な立場に置かれることとなった。一族の構成員は、同市における高い官職に就いており、特に、ハンス・フッガーの兄マルクスは、都市統治における最高位の都市管理人(Stadtpfleger)として、改暦問題に対処していた。したがって、本報告においては、「ハンス・フッガーの書簡」を史料として、アウクスブルクにおける宗派対立とされる、グレゴリウス暦への改暦紛争を分析した。従来、改暦紛争の研究において用いられた都市の年代記は、福音主義派の著者に由来するのであるが、一方、ハンスの書簡は、カトリックの上層部の人びとの見解を提示することができる。フッガー家は、改暦紛争をどのように捉えていたのか、および市参事会の見解と一致していたのかについて考察するとともに、フッガー家が都市内、あるいは広く社会に与えた影響を明らかにした。その際、フッガー家とアウクスブルクの指導層との関係、および同家の宗派に対する意識に留意した。

第一に、改暦紛争の起こった1580年代までのアウクスブルクの状況を遡り、フッガー家の都市内における立場について触れた。フッガー家は、元来、生粋の都市貴族(Patriziat)ではなく、また、一族の官職年数も少なかったのであるが、1548年、仮信条協定(Interim)に伴う、皇帝カール5世による市政改革後、高い官職に就くようになった。アウクスブルクは、従来の研究において、他都市とは異なり、宗派的に比較的寛容な都市であったとされている。例えば、都市内において宗派の異なる男女の結婚、およびカトリックと福音主義派の教会施設共同使用も見られた。フッガー家も同様であり、福音主義派を名乗る一族との商業上の結び付き、および多くの福音主義派の貴族の家族との結婚が確認され、また、ハンスの書簡における文通相手にも、ルター派の諸侯、友人、ならびに知人がいた。

第二に、改暦紛争の社会的・政治的背景、および改暦紛争についての概略を述べた。アウクスブルクにおいて、1560年代よりイエズス会の活動が盛んとなり、カトリックへの改宗者が増加し、市参事会により、イエズス会の神学院の設立が行われた。これに対抗して、福音主義派も自身の学校を設立し、1580年代には、宗派闘争の対極化の時期を迎えることとなった。1583年より生じた改暦紛争の発端は、カトリック側(都市指導層)が新たなグレゴリウス暦の採用を主張したのに対し、福音主義の人びと(主に一般市民)は従来のユリウス暦を遵守したことにあった。グレゴリウス暦への改訂が、カトリック教会の長であるローマ教皇から発布されたという事実は、福音主義の人びとにとって不満となり、1584年以降、教会の祝祭日がずれる問題、および福音主義の説教師の任命権問題から両宗派の対立が表面化し、騒擾へと発展した。アウクスブルクにおける改暦紛争は、改暦反対者も、対する市参事会も同様に、都市外からの支持者を動員し、広がっていくこととなった。

第三に、ハンス・フッガーの書簡よりアウクスブルクの改暦紛争について分析した結果、以下の四点が明らかとなった。まず、ハンス・フッガーの主張と市参事会の主張は一致しており、改暦紛争において、「宗派」は外見上に過ぎず、むしろ、改暦反対者の都市当局(Obrigkeit)に対する抵抗であり、1548年、カール5世により定められた都市統治体制が問題であった。次に、改暦反対者は、対外的な援助としてヴュルテンベルク公ルートヴィヒを動員し、対する市参事会は、皇帝ルードルフ2世、およびバイエルン公ヴィルヘルム5世の援助に加え、フッガーとの私的なコンタクト(宮廷顧問トナー、帝室裁判所長官モントフォルト等)もあった。フッガーは、適切な情報政策を通して、アウクスブルクの市参事会の声明、ならびに改暦紛争に対するカトリックの指導層の見解を知らせるとともに、皇帝と諸侯による援助の確保に努めた。さらに、フッガーのプロパガンダは、改暦反対者を煽動している説教師ゲオルク・ミュラーを、かつての売春仲介者として侮辱し、評判を落とすことにあった。フッガーが、ミュラーの過去についての情報を告発したのかどうかについては実証されないのであるが、ミュラーについての噂は、その後17世紀初頭まで広がっている。最後に、フッガーの情報網において、ルター派の文通相手、ノイブルク宮中伯フィリップ・ルートヴィヒが重要であった。ハンス・フッガーは、兄マルクスの政治的立場を基盤とし、宮中伯がハンス自身を仲介者とみなすことに成功した。「コミュニケーションの才能のある人物」(C.Karnehm)ハンスは、都市内における官職には就いていなかったものの、市参事会の代弁者として尽力し、都市内・外におけるフッガー家の立場を確保したのみならず、アウクスブルクのカトリックの指導層の優位的立場をも擁護したと言えるであろう。改暦紛争は、フッガー家の巧みな情報戦略により、「宗派問題」から「世俗的かつ政治的問題」へと置き換えられて、対処されたことも考えられる。