[第74回]

「中世末期における都市と異端−1430年のフリブール・ヴァルド派裁判」

報告者 神谷貴子


▽日時:2011年7月16日(土)14時〜18時
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館10594会議室)



西欧中世二大異端の一つに数えられるヴァルド派は、1184年のヴェロナ公会議で異端として断罪された後もヨーロッパ各地に広まった。中世ドイツに存在したヴァルド派については、1970年代に異端審問裁判記録などの史料が発見されるまでは、アメリカの中世史家R.E.Lernerが述べたようにまさしく「忘れられた中世の異端」であった。1970年代以降、中世後期ドイツにおけるヴァルド派史研究が進むにつれ、これまで提示されてきたヴァルド派像は大きく修正された。かつてヴァルド派は異端として断罪されて以降、西欧中世キリスト教世界の周縁部に追いやられ、農村部の小作農などの比較的低い社会層と結びついていたとされてきた。しかし、ドイツのヴァルド派は、周縁地域だけでなく、都市にも存在し、比較的高い社会層にも信奉者を有していたことが明らかになった。とりわけスイスの都市フリブールにおけるヴァルド派に関しては、彼らに対する異端審問記録が非常に豊富に伝承しているだけでなく、市民名簿や公証人記録簿などの記録も豊富に伝承していることから、中世末期の異端の姿だけでなく、異端が都市においてどのような社会的状況に置かれていたかを詳細に探ることが可能である。スイスの中世史家K.Utz Trempは、1399年と1430年に行われたフリブールのヴァルド派裁判の容疑者たちのバイオグラフィーを詳細に検討し、異端の社会的状況を明らかにした。しかし、彼女の研究では、異端と対峙した都市当局の構造や、異端以外の人々がどのような状況にあったのかが明らかになっていないため、都市の中で異端がどのような立場にあったかは不明瞭である。本報告では、市政構造や市民権の問題などに着目し、この時期のフリブールの都市社会の特徴をより明瞭にした上で、あらためて1430年のヴァルド派裁判を検討することにしたい。

裁判記録の抜粋のみが伝来する1399年の裁判は容疑者57名全員無罪という極めて異例な結果に終わった。この結果については、裁判が近隣都市ベルンからもちこまれたこと、当時フリブール市当局に迫害の意志が欠けていたことが原因と考えられる。1399年の裁判は容疑者たちの経歴には影響を与えず、また、都市の歴史にとっても大きな転機とはならなかった。

1399年の裁判からおよそ30年後の1430年の裁判記録は非常に豊富に伝承されている。裁判は異端審問官、聖職者に加えて、シュルトハイスや各地区のフェナー(旗頭)など、世俗の都市役人が陪席して行われた。この裁判では容疑者69人のうち12人(男性5人女性7人)が、終身禁固刑や異端の十字のしるしを衣服に付けなければならない刑などの有罪判決を宣告され(うちベルン近郊出身の男性1人が火刑)、10人(男性8人女性2人)が異端放棄の宣誓を行い、女性1人が無罪証明を受け、男性1人が逃亡した。裁判の最終局面ではもはや有罪判決者が出ることはなく、最終的には夫婦のいざこざでこの裁判は幕を閉じた。この裁判の2年後には終身禁固刑を受けた有罪者全員が異端審問官の恩赦により釈放されている。結局、この裁判で処刑されたのは、フリブール出身者ではない男性1人という、1399年の裁判に続いてきわめて緩い裁判であったといえる。

裁判の重要な争点は、ヴァルド派の煉獄否定であった。また、被告が福音書とパウロの書簡の注釈を所有していたことも裁判記録から読み取ることができる。二つの裁判の審問条項を見ると、フリブールのヴァルド派は、中世盛期の聖書主義的なヴァルド派の信仰を継承しており、彼らはフス派と結びついた「宗教改革の先駆者」ではなく、聖書主義的なヴァルド派信仰を持ち続けた中世末期ドイツ最後のヴァルド派であったと考えられる。

2つのヴァルド派裁判が行われた14世紀後半から15世紀前半にかけて、都市フリブールは、皮革業と毛織物業の発展によってかつてない繁栄の時代を迎えていた。フリブールはハプスブルク家を都市領主とし、一貫した都市貴族支配を保っていた。1249年に当時の都市領主であったキーブルク家によって授与された都市特許状には、シュルトハイス、主任司祭、収税吏は市民の中から市民によって選出され、都市領主の承認を得なければならないことが明記されている。教師、教会管理人、門番、廷丁に至っては、都市領主の承認を必要とせず、市民による任命権、解任権が認められていた。このことから、都市フリブールは都市領主によって都市の自治を保障されていたことが分かる。

フリブールの市参事会は、24人市参事会、60人市参事会、200人市参事会によって構成されており、前者二つの参事会によって都市条例が制定され、外交問題が処理されていた。1404年以降はフリブール内の4つの地区の各フェナーと60人市参事会、地区代表各20名から構成されるdie Heimliche Kammerと呼ばれる選挙合議団によって、市参事会員、収入役が選出されるようになる。ほとんどの市参事会員が再選され、フリブールは都市貴族による寡頭支配体制を維持していた。都市の経済発展とともに、新たな富裕層が台頭し、彼らは15世紀には事実上の都市貴族となっていった。

同時期にフリブールでは市民も増加することが、市民名簿T(1341−1416)からも読み取れる。市民になるには市民加入金やBurgerweinと呼ばれる上納品を納入し、また都市内に担保となる不動産を必要とし、市民と非市民の資産には大きな隔たりがあった。市民は兵役、納税、見張り等の義務を負う一方、関税免除、共用地使用、裁判時の保護が市民の権利として規定されていた。また、市民は市政に参加する権利を有していた。市民は経済的・政治的指導者層を形成していたと考えられる。

都市と異端の関係に目を向けると、フリブールの都市主任司祭Wilhelm Studerの事例は注目に値する。彼は、ヴァルド派の家庭に生まれ、二つのヴァルド派裁判では彼の兄弟姉妹に異端の嫌疑がかけられていた。教会と異端の家族との板挟みとなり、長期にわたって都市を離れていたが、都市フリブールは彼を解任することはなかった。二つの裁判結果と主任司祭の事例から、都市は教会に対しても異端に対しても消極的対策しか取らなかったと言えるだろう。

都市における異端は職業からみると、都市の広範な社会層から成っていたが、ヴァルド派裁判容疑者男性61人のうち実に24人が商人mercatorであった。また、市政の役職者も含まれていた。特にフリブールにおける二つの有力な商会Praroman&Bonvisin(societas illorum de Bonvisin et de Praroman), Studer&Reiff(societas de Studer et de Reif)の出資者が多数含まれていた。商会の出資者には小市参事会員も含まれており、これら二つの商会の出資者はフリブールの経済にとっても市政にとっても重要な役割を担っていたと考えられる。

また、ヴァルド派裁判容疑者の大半がフリブールの市民層であった。彼らの市民加入時期は、経済発展による都市の市民増加期とほぼ一致している。ヴァルド派容疑者はフリブールの経済発展期に新たに加えられた新興市民であり、経済的にも富裕層へ上昇していく者たちであった。中世末期都市フリブールにおけるヴァルド派は、フリブールの経済・市政を支える側に立ち、都市にとっては保護すべき市民層であったと考えられる。