[第75回]
▽日時:2011年10月29日(土)14時〜17時
▽場所:早稲田大学早稲田キャンパス(14号館804会議室)
第2次世界大戦中の日本国内における赤十字活動として、原爆被爆後の広島において赤十字国際委員会(以下、ICRCと略)駐日代表マルセル・ジュノー博士が実施した救護活動がしばしば挙げられる。しかし、ジュノー博士が来日したのは1945年8月9日であり、米占領軍による情報管制を排して、ようやく同博士が広島に赴くことができたのは、同年9月4日である。広島におけるICRCによる救護活動の意義はいささかも薄れるものではないが、このことだけでもって、第2次世界大戦中の日本国内における赤十字活動を語ることには無理がある。むしろ、ジュノー博士の前任者であり、1944年1月にICRC駐日代表部首席代表のまま客死したフリッツ・パラヴィチーニ博士の下での赤十字活動が語られるべきである。ところが、パラヴィチーニ博士について、英米での文献は批判的である。第2次世界大戦中に日本軍権下で起こった連合国軍捕虜虐待の責任は、パラヴィチーニにあるとするのである。はたしてそうであろうか。そこで、本報告では、日本赤十字豊田看護大学図書館赤十字史料室、日本赤十字社本社赤十字情報プラザ、在ジュネーヴICRC附属アーカイブに所蔵されている史料を利用し、パラヴィチーニ博士の事績について再検討を試みた。
フリッツ・パラヴィチーニ(正式には、ヤコブ・アウグスト・フリドリン・パラヴィチーニ)は、1874年6月10日にスイス連邦グラーリス州エネンダに生れた。チューリッヒ大学で医学を修めると、スイス国内外でインターン経験を積み、チューリッヒ郊外のアルビスブルムのクリニック医師となった。その後、友人の誘いに応じ、1905年、極東の日本に渡り、横浜市内本牧で外科医院を開業するに到った。数少ない在日ヨーロッパ人医師であった彼は、在日外国諸公館の嘱託医をもつとめることになった。
第1次世界大戦に日本が参戦し、青島、大連のドイツ軍根拠地を陥落させると、多数のドイツ・オーストリア人捕虜が日本に移送され、国内各地に開設された捕虜収容所に収容された。このうち、久留米収容所で、捕虜殴打事件が起きたため、ハーグ陸戦法規、ジュネーヴ条約に基づき、ICRCによる査察が必要となった。在日スイス公使フォン・サーリスの推薦により、パラヴィチーニがICRC駐日代表に任命された。
1918年6月末より7月にかけて、日本国内の計8ヶ所の捕虜収容所を視察し、同年9月に、彼はICRCジュネーヴ本部に「俘虜収容所視察報告書」(戦前の公文書では、「捕虜」を「俘虜」と表記)を提出した。この中で、パラヴィチーニは、医師としての視点から幾つかの提言をすると共に、収容所運営をおおむね好意的に評価している。日本側でも、「国際条約ヲ遵守シ其ノ範囲内ニ於テ出来ル限リ人道上ノ義務ヲ尽」くすという姿勢から、捕虜との面会では、通訳以外の立会人を置かないという措置を取り、彼の視察に協力的だった。
第1次世界大戦終結により、ICRC駐日代表としてのパラヴィチーニの任務は終わった。だが、彼とICRCとの関係は続く。特に、1934年に第15回赤十字国際会議が東京で開催された時に、彼はICRC代表団の一員として参加した。
1941年12月に日本が米英に宣戦を布告し、第2次世界大戦の戦火は極東にまで広がった。ICRCからの要請により、パラヴィチーニは再びICRC駐日代表の任に就くことになった。ついては、第1次世界大戦時よりも、戦場が拡大し、交戦当時国がふえていた。更に、開戦時に日本国内に居住し敵国籍であったために、抑留所に身柄を拘束されることになった、外国籍民間人被抑留者らへの救援という業務も加わった。必然的に、駐日代表としての業務量がふえ、複雑化していった。そこで、在日スイス人から代表補として現地スタッフを補充して、ICRC駐日代表部を発足させ、彼自身はその首席代表となった。
当時、ICRC駐日代表部が従事した業務とは、以下のとおりである。第1に、日本国内に抑留されている捕虜そして民間人抑留者らについて、その出身国から照会があれば、安否を確かめて、回答した。第2には、出身国から郵便、小包が届けば、その名宛人たる、捕虜そして民間人抑留者らへ搬送を仲介した。第3には、捕虜収容所、抑留所に立入り、抑留されている捕虜、民間人抑留者らへの処遇状況を視察し、問題があれば、報告書(その写しはICRC本部を経由し、連合国側にも送付された)の中で言及し、日本当局による改善措置を促した。
しかし、ICRC駐日代表部は、次のような問題に直面した。第1には、「戦陣訓」に「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」とあるように、日本国内では捕虜となることを戒める風潮が強くなっていた。第2には、日本国内で国粋主義的傾向が強まり、ICRC要員をスパイ視するようになっていた。第3には、日本が「俘虜ノ待遇ニ関スル1929年ノジュネーヴ条約」に調印していても、批准していなかった。特に、ICRC代表をも含めた第三国代表が捕虜収容所内に制約なく立入り、立会人なく自由に捕虜と面談できることを定めている同条約第86条に、日本軍部が強く抵抗した。
第1の点では、日本国内で捕虜となることを戒めるからこそ、外国人捕虜に対しては蔑視につながった。第2の点では、駐日代表部スタッフの家族がスパイ容疑で逮捕監禁されたり、代表部がジュネーヴに打電する電報が事前検閲により、改竄を受けた。第3の点では、収容所あるいは抑留所への視察を日本側がしぶり、許可した場合でも、ICRC駐日代表らの立入る箇所を著しく制約し、捕虜または被抑留者らとの面談には、日本側立会人を同席させた。しかも、日本側は視察時にだけ待遇を良くするという演出さえした。このため、所内の実情を把握することはできず、視察のチェック機能が骨抜きにされた。
1942年3月に、開戦後初めて捕虜収容所を視察し、第1次世界大戦時とは異なり、日本側が著しく非協力的になっていることを、パラヴィチーニは、ICRCジュネーヴ本部宛5月15日付書簡の中で、吐露している(日本側の検閲が敷かれていた当時、この書簡がどのようにしてジュネーヴに届いたかは不明である。ICRC附属アーカイブに保管されているオリジナル書簡には、1942年7月9日付スタンプで整理年月日が押印されている)。特に、第2の点につき、視察をしても収容所あるいは抑留所内の実情を把握することができず、把握できてもありのままを記すことができないので、彼は「行間を読み取る」ように懇請している。しかし、日本から視察報告が「できすぎている」として、ICRC本部が疑い出すのは、1944年4月以降になってからである。
こうした状況下で、日本軍権下の捕虜収容所内での連合国軍捕虜虐待が起こるべくして生じたと理解すべきであろう。その責任をパラヴィチーニのみに帰すことは、妥当ではない。むしろ、当時の厳しい制約の中で、彼が赤十字活動に奔走していた事実は認めるべきであろう。例えば、1942年10月、大阪俘虜収容所内で赤痢が蔓延し、抑留中のアメリカ兵捕虜多数が死亡している。さすがに陸軍当局は捕虜だからと放置できず、日本赤十字社俘虜救恤委員部を通じて医薬品の供与を求めてきた。当時、ICRC駐日代表部には、交換船により米国赤十字社から届けられた医薬品が保管されていた。その使用には、詳細な情報をICRC本部に届けねばならなかった。ところが、陸軍当局は、軍の機密であるとの理由で、収容所の所在地さえ開示しなかった。しかし、事態は一刻を争う。この時に、パラヴィチーニは独自の判断で、ICRC駐日代表部が保管する医薬品を日本側に提供している。
なお、1944年1月29日、過労とストレスが重なり、更に持病が悪化したため、パラヴィチーニは、疎開先の横浜市内弘明寺の自宅で客死した。葬儀は仏式とキリスト教式(カトリック)で営まれた。日本人家族がいたようであるが、報告者はその詳細をつかんでいない。