[第77回]

「服飾史からみたスイス」

報告者 黒川祐子


▽日時:2012年10月27日(土)14時〜17時
▽場所:國學院大学渋谷キャンパス(若木タワー5階、0504演習室)



西洋服飾史の通説に、15世紀末期から17世紀中期にかけて西洋で幅広く流行した切れ目装飾の起源及びその伝播が、スイス兵もしくはドイツの傭兵であるランツクネヒトに関わりがあるとする説がある。しかしその真相は未だ明らかにされてはいない。切れ目装飾がスイス兵に起源するという説については未確認であるが、報告者のこれまでの調査で、その流行がランツクネヒトと深く関わっていたことについては、ある程度明らかにすることができた。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が15世紀末に徴募をはじめ、皇帝カール5世が政治の舞台を退く16世紀中期まで、帝国の軍隊の重要な戦力であったランツクネヒトは、募兵に際し当時流行の切れ目のある服を自前で整え、貴族になったような気分を味わえることに喜びを感じていたのである。また16世紀前期のベルンでは、スイスの傭兵に対し流行の切れ目の入った服を禁じる条令が出される一方で、帝国はランツクネヒトの衣服に対し極めて寛容な態度を示していたことが、ドイツの衣服条令に確認できる。

20世紀初めのドイツの文化史家であるマックス・フォン・ベーンは『モード』のなかで、16世紀の切れ目装飾の多様化について、切れ目が服の「胸や背中全体に、たとえば十字、星型、花輪などの図形を描き始めた」として、これらの切れ目を一種の絵模様のようにとらえている。しかし報告者は、スイスの伝説上の英雄ウィリアム・テルを描く16世紀の図像に、4本でひとつの十字模様を表す切れ目が数多く描かれていることを発見した。自らが住むウーリの地を統治する代官ゲスラーの怒りに触れ、息子の頭上のリンゴに向け矢を射るよう命じられ弓を引くテルの衣服の背部には、しばしば十字の切れ目が見られる。なぜテルは16世紀の図像に、十字の切れ目の入った服を着て描かれたのだろうか。

同じ16世紀のスイスでは、ほかにもスイス国家誕生の起源ともいわれるウィリアム・テル伝説の重要なモチーフの一つである1291年の「リュトリの誓い」や、1481年の「シュタンス協定」を題材にした図像がしばしば描かれているが、これらに登場する人物の衣服にも、同様に十字の切れ目を見つけることができる。しかも彼らの服装は、16世紀のスイス兵の服装と一致する。したがってこれらの図像は、当時国家団結の危機に直面していたスイスが、西洋に優秀な兵力を誇る歴史をもち、さらには国家団結の象徴でもあった誉れ高きスイス兵の服装を描くことにより、スイスとしての国家団結の原点に立ち戻ろうとする意志をそこに表明しようとしていたものと考えることができる。

スイス兵が十字のしるしを着けるようになったのは、コンラート・ユスティンガーの『ベルン年代記』に、1339年のラウペンの戦いで、スイス兵が「白い布地でできた神聖な十字のしるし」を着けていたことが記録されていることから、14世紀前期にははじまっていたことが確認できる。その後のスイス兵の戦いを描いたディボルト・シリングの『ルツェルン年代記』や『絵による年代記』でも、彼らの胸、腕、脚部などに十字が表されていることから、以降もスイス兵のしるしとして、白十字を着ける慣例は続いていたものと考えることができるが、ヴァレリウス・アンシェルムが『ベルン年代記』のなかに、1499年ドルナハの戦いでのスイス兵の様子を「白い十字の紐を体や帽に着けていた」あるいは「腕または脚衣に留めつけていた」と記述していることから、これらの十字は15世紀末までは、紐や布でもって縫い留めていたと考えることができる。

また縦横が90度に交わるスイス兵の正十字に対し、ランツクネヒトは「アンデレ十字」と呼ばれる縦横が斜めに交差する十字を、そのしるしとし衣服に着けていた。スイス兵とランツクネヒトは、フランス軍に対するブルゴーニュ軍または神聖ローマ帝国皇帝軍として、敵として交戦するばかりでなく、その記録から、制度や報酬などの差異をめぐっても、それぞれが互いに敵意を抱いていたことが明らかとなっている。16世紀に描かれた息子の頭上に向かい弓を引く、正十字の切れ目のある服を着たテルの像の傍らでは、大国の圧政の象徴であるハプスブルク家の代官ゲスラーやその家来に描かれた衣服に、斜め十字の切れ目が表されている。ウィリアム・テル伝説を題材にした16世紀の図像には、スイス兵とランツクネヒトの対立の構図が、ここに形を変え表されていたものと結論づけることができる。