[第80回]

「シュピーリ『ハイジ』の背景:19世紀チューリヒの政治・宗教・文化」

報告者 森田安一


▽日時:2013年11月16日(土)14時〜17時
▽場所:國學院大学渋谷キャンパス(若木タワー5階、0502教室)



ヨハンナ・シュピーリの傑作『アルプスの少女ハイジ』を理解するには、彼女の育った家庭環境、特に祖父母および両親を取り囲むチューリヒの政治・文化・宗教について考察する必要がある。幸いなことに、祖父Diethelm Schweizerの日記(Graf, Ruedi, Die Tagebucher des Pfarrers Diethelm Schweizer (1751-1824). Mit CD-ROM. Zurich 2010)、母Meta Heusser-Schweizerの『家族年代記』 Hauschronik, hrsg. Von Karl Fehr, Kilchberg 1980および彼女の『回想録』(Schindler, Regine, Die Memorabilien der Meta Heusser-Schweizer (1797-1876). Mit CD-ROM und vier Stammbaumen zu wichtigsten Personenkreisen. Zurich 2007)をその際に利用できる。

ヨハンナの作品には濃厚なキリスト教色があるが、それは母方の曾祖母以来のピエティスムスの影響が考えられる。特に祖父Diethelmは18世紀の風潮である啓蒙主義に反対の立場を示し、いわゆる学校神学に背を向け、霊的欲求を満たす「聖書の会」を作る活動をし、母メタは著名な宗教詩人であった。

祖父はチューリヒの宗教的・文化的サークルの中心人物であるラーヴァターJohann Caspar Lavater (1741-1801)のサークルに属していた。ラーヴァターは主著『観相学断片 人間知と人間愛の促進のために』(4巻、1775〜78)を書き、ヴォルフガング・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(1749〜1832)とも交流があった。また、Diethelmはチューリヒの名門ゲスナー家に出入りし、娘のアンナと結婚している。アンナの弟ゲオルク・ゲスナーGeorg Gessner(1765-1843)はのちにチューリヒのグロースミュンスター司祭、チューリヒ司祭長となり、チューリヒ教会の中心人物となる人物である。ゲオルクはバルバラ・シュルトヘスBarbara Schulthess(1745-1818)の娘と結婚した後、ラーヴァターの娘と再婚している。バルバラはゲーテから彼の作品の草稿を送られるほどの深い関係にあった。Diethelmは1785年34歳の時にディーポルトザウという村の牧師職についたのちに、1796年ヒルツェルに移るが、その翌年にヨハンナの母メタが生まれた。次いで末娘ドロテーアが生まれるが、彼女の代父はラーヴァターで、代母はシュルトヘスがなっているように、Diethelmはチューリヒの文化人と深い交流があった。

Diethelmがヒルツェルに移ってから、スイス革命があり、ヘルヴェティア共和国が1798年4月に成立する。この変革の時代に,フランス軍がヒルツェルに進駐し、さらにはボッケン戦争(チューリヒ湖畔住民の蜂起)にも襲われる。ヨハンナの父母の時代にはシュトラウス事件があり、チューリヒ・プッチが起きる。この事件に関わって、ヨハンナの先生で、ヒルツェルの進歩派牧師ザロモン・トーブラー(1794-1878)が解任された。この事件は一〇代前半のヨハンナにショックを与えたに違いない。

ヨハンナは1841年に14歳でヒルツェルを出て、チューリヒで学び、その後ヌシャテル湖畔のイヴェルドン・レ・バンに行く。ヒルツェルに戻り、妹たちの家庭教師的役割をしながら、ゲーテやレッシングの作品を読みあさったらしい。イヴェルドン・レ・バンでの寄宿生活を共にしたAnna Elisa von Salis-Hssoli (アンナ・ヘスリー)を通じて、彼女の故郷イェニンスを知り、そこでの体験で『ハイジ』の背景を学んだと思われる。

そのころヒルツェルをしばしば訪れていた兄の友人で、弁護士のJohann Bernhard Spyriとヨハンナは1852年に結婚し、チューリヒに住む。夫シュピーリはトゥルガウ出身の染物師の息子で、チューリヒの新市民だった。しかし、有能かつ勤勉で、瞬く間に立身出世をしていく。新聞「スイス(盟約者団)」の編集者、カントン議員を経て、1859年に市議会の法律顧問、68年には都市書記(官房長)に就任し、立派な官舎住まいをする。彼がこのような経歴をたどれた理由は当時のチューリヒの経済発展と政治状況にあった。

当時のチューリヒの政治・経済を牛耳っていたのは、自由主義派の左翼と言える急進派アルフレート・エッシャーであった。1852年に「鉄道法」が制定されると、彼は鉄道建設の資金調達のためにクレディ・スイス銀行を設立した。さらにはザンクト・ゴットハルト・トンネルを通るゴットハルト鉄道を計画したり、ETH(チューリヒ工科大学)の設立に奮闘したりした。保守派のシュピーリはエッシャーと対立しており、都市書記になったのはエッシャーが政治から身を引いたときだった。

夫はワーカホリックで、あまり家庭を振り向かなかったので、ヨハンナは子供を産むと激しい鬱になる。慰めを見出していたのは、ベツィおよびコンラート・マイヤーの母親の家で開かれていた文学と美術のサロン「月曜会」を訪れることであった。

文学といえば、この時期のチューリヒの重要な文学者としてフリードリヒ・ケラーとコンラート・マイヤーがいる。ケラーはヨハンナの二人の兄と親交があったが、ヨハンナはNZZ等の新聞紙上では終始ケラーと対比され、女ケラーと称されていた。ケラーが1861年から1876までカントン・チューリヒ政府第一書記に選ばれ、15年間その地位にあったので、夫シュピーリとの職業柄からも二人の間に強い関係が推測される。しかし、ヨハンナは1874年にベツィ・マイヤーに次のように書いている。「彼は独特な、力強い、新鮮な筆力を持っている。彼は冗漫でもなく、退屈でもない。良き考えに適切な言葉を見出し、しばしば舌を巻くほど面白い。しかし、私はああいった人間は好きではない」と。あるいは「あのようにすばらしく書ける人が、どうして同時にあのように悪趣味であり得ようか」とも書いているのである。

一方、ヨハンナはマイヤーに対しては異なる態度を示している。マイヤーの作品『アンジェラ・ボルジア』を送られたときの礼状で次のように書いている。「『アンジェラ・ボルジア』をありがとうございました。先ほど完読いたしました。そこには偉大なもの、美しきもの、恐るべきものがたくさん盛られています。・・・・あなたの御本はいつも私を駆りたて、どの本を読ませて頂いても、平板な日常生活の煩わしさを越えて長い間別の世界に私を引き上げてくださいます」と。

また、1849年5月ドレースデンの市民蜂起に参加し、「お尋ね者」になってチューリヒに逃れてきたリシャルト・ワーグナーとの関わりも興味を引く。ヨハンナの新婚2年目の52年にワーグナーの40歳の誕生日を祝うかのようにヴァーグナー音楽祭がチューリヒで3日間開催されたが、そのために夫シュピーリは奔走している。ヨハンナもそのお祝いに敬意を表した詩作をしている。ヨハンナがどの程度ワーグナーに心酔したかは、コンラート・マイヤーの母親が娘のベツィに送った手紙の内容から読み取れる。「彼女のワーグナー熱に関して彼女がもっと節度を守るようにと頼みました」と。

ヨハンナ・シュピーリの育った家庭環境、チューリヒの政治・文化を調べることはシュピーリ研究に不可欠であると同時に、19世紀チューリヒ史研究にも役立つであろう。