[第81回]
▽日時:2014年6月14日(土)14時〜17時
▽場所:國學院大学渋谷キャンパス(120周年記念1号館2階、1206教室)
*今回の研究会については、元スイス特命全権大使の國松孝次氏による表記のご講演と出席者との質疑応答や研究会を通じて議論されたことなどを基にして、僭越ながら司会者としての立場から理解した限りのことをご報告させていただくこととしました(文責:岩井隆夫)。
國松孝次氏によるご講演は大前研一氏の論文「日本は『クオリティ国家』を目指せ」(『文藝春秋』2013年6月号)を資料として配付した上でなされましたが、ご講演の柱となる議論は次の通りです。
大前氏のいうところの「クオリティ国家」とは「ボリューム国家」と対比的に提示されたものである。ボリューム国家というのは経済規模が大きく、人口・労働力のボリュームがあり、低コストの人件費を強みとした「工業国家モデル」で急成長している国々のことであり、いわゆるBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)などが代表例である。これに対してクオリティ国家というのは、経済規模が小さく、人口は三百万〜一千万人で、一人あたりのGDPが四百万円以上、人件費は高いが、それをカバーできるだけの高い付加価値を生み出す能力と生産性を持った人材が揃っている国のことであり、スイス、シンガポール、フィンランド、スウェーデン、デンマークといった国々が典型的な例である。とくにスイスは世界中からヒト・モノ・カネ・企業・情報を呼び込むためにカントン(州)やゲマインデ(市町村)が競って優遇税制を取り入れていたり、伝統的な職人魂に裏づけられた中小零細企業が高い技術力と競争力を基盤に高い国際競争力を維持している。大前氏は日本がクオリティ国家を目指すためには「道州制」の導入が不可欠であるとして、日本の統治機構のあり方を再検討すべきであると提言している。
ご講演では、道州制の是非について議論することではなく、少子高齢化に伴う労働者人口の減少と高齢者の増大という日本の抱えている現実を直視して、クオリティ国家の一つであるスイスの事例に学ぶべき点について三つの論点が提示された。
まず一つは地方自治のあり方について。スイスにおいては個人の<自律>と<自立>の精神が徹底していること、また、主権者としての個人(国民)→ゲマインデ(市町村)→カントン(州)→連邦というように地方自治の重心が下にあること、地域の連帯感や地域との密着性が極めて強固であることが指摘された。このうち地域の連帯感や地域との密着性については、日本についても同様のことがある程度みられるということも指摘された。
次に、労働者人口の減少に対応する外国人政策について。スイスでは居住者の30%ほどが外国人であり、本年2月に移民政策のあり方が国民投票で問われたことからも分かるように、従来の移民政策を再検討すべきであるとする動きがありながら、同化(assimilation)でもなく多文化主義(multiculturalism)でもなく、統合(integration)という理念が一貫しており、わが国も外国人雇用についての理念の構築が必要であるという指摘がなされた。
最後に、自然災害に対する危機管理(Damage Control)について。スイスでは危機というものは日常的なものであるが故に危機に対して日常的に対応するという意識が徹底しているのに対して、日本では台風や地震といった自然災害の規模が余りにも大きく危機が非日常的なものであるが故に危機に見舞われたときに即座にある程度効果的な対策をとる一方で危機を忘却するという意識が強い。今後の巨大地震などの危機への対策についてBCP(Business Continuity Plan)も含めてスイスに学ぶべき点は多いという指摘がなされた。
ご講演に続いて、國松孝次氏が在スイス特命全権大使を務められていた1999年から2002年にかけての時期に在スイス日本大使館の一等書記官(のちには参事官)として(当時の)大蔵省から出向されていた後藤真一氏(財務省大臣官房審議官)から、当時のスイスにおいて政治的かつ経済的に大きな争点になっていたのはヨーロッパ連合(EU)の拡大とユーロの導入に対してスイスはいかに対応すべきかという問題であり、具体的には前者についてはEUとのバイラテラル交渉により農業政策のあり方、アルプスを貫通する運輸交通の環境政策などを争点として適切な距離感を模索し、後者についてはスイスフランを護持しつつ国内の2重通貨制をいかに回避するかが激しく議論されており、さらには長年不変とされてきた三大銀行制から二大銀行制(現在のUBSとクレディ・スイス)への再編成といった金融グローバリゼーション問題に我が国同様直面していたことが紹介された。その上で、スイスにおけるカントン毎の税制の多様化、スイスの多国籍巨大企業ではオーナーはスイス人である一方CEOは積極的に有能な外国人が登用されていること、スイス人は一般に独立心や起業家精神が旺盛であり国の企業支援策に依存せず技能面での専門性を重視する傾向が強いことが指摘され、さらに国際的に展開する金融業というのは情報産業という面を有しており、スイスは中立国としてのメリットを生かして、例えばスイスの二大金融中心地の一つであるチューリヒはロシアや東欧からの情報が、もう一つのジュネーヴはアラブ諸国やアフリカからの情報が集積されていること、また、スウォッチやネスレといったグローバルな巨大企業は単に製品の品質にのみ頼ることなく、企業統合で傘下においた個々の企業の著名ブランドを維持する巧みなマーケット戦略で成功を収めていることなど、勤務経験を通じた興味深い事実が紹介された。
その後出席者と國松孝次氏との間で質疑応答がなされる中で、例えばスイス出身の著名な芸術家が外国で評価されることを目指したり、反対にヨーロッパの著名な思想家や文学者などが活躍や生活の拠点をスイスに置いていたこと、あるいは、多様な方言(母語)と複数の公用語(国家語)という重層的な言語環境の中で外国語あるいは外国人に対する寛容な意識が培われていることなど興味深い事実が紹介されたりしたが、ここでは交わされた議論の中から、とくにスイスの住民自治や地方自治のあり方をめぐる議論について、あくまでも司会者としての立場から理解し得た限りのことを述べることとする。
国民投票制度に象徴される連邦レベルの政治制度における直接民主制、州(カントン)の憲法や州独自の税制などに象徴されるカントン(州)レベルにおける地方自治、住民投票制度や教育制度などに象徴されるゲマインデ(市町村)レベルにおける直接民主制や住民自治のいずれについても、淵源にまで遡った上で歴史的に跡づけることが必要であるということが議論の中で共通理解として得られたことは極めて意義深いことである。ゲマインデレベルの住民自治は中世盛期以降に確立された共同体裁判に象徴される農村共同体自治や市参事会に象徴される都市共同体自治に淵源を有するものであるが故に強固なものであること、カントン(州)レベルの自治は中世盛期における帝国農村や帝国都市の「特権的」自治を基盤にした都市国家や農村共和国の同盟複合体としての「盟約者団」の成立と展開の歴史の中で培われたものであること、さらに連邦レベルの直接民主制というスイス独自の政治制度はとくに18世紀後半から19世紀前半にかけてのヨーロッパにおける国民国家の確立という動きとの関連を抜きにして語ることはできないことなどが議論された。もちろん、中世盛期以降の段階で神聖ローマ帝国の版土内やそれ以外の地域においても都市共同体や農村共同体の自治や地域レベルの自治が広くみられたことは知られており、スイス固有のものであると一義的に語ることはできないにしても、共同体から地域さらに国家に至るまで、個性重視と多様性の中の統一という形で民衆自治の精神が一貫している点ではスイスの政治や社会のあり方は傑出している。ヨーロッパ連合が拡充する中で国民国家の枠組みを超える形で地域や市町村レベルの自治が意義を増しつつある現代のヨーロッパの中でスイスの政治や社会のあり方が注目されている。最後に、内向きであると言われている日本の若者の中にも外国の社会から学んだことを将来は日本の社会で生かすという確固たる信念を有する者がいることを出席者の中に見出したことは心強いことであった。